西アフリカのガーナとセネガルを旅して気づくのは、レバノン人が経営する店が多いこと。英エコノミスト誌によると、西アフリカにはレバノン人が約25万人住んでいて、多くのビジネスセクターで活躍しているそうだ。
私が生活するガーナにも、英ニューアフリカン誌の数字を引用するならば1万人のレバノン人が暮らしている。ガーナの人口は約2500万人だから、その割合は0.04%。人数は決して多くはないが、ガーナ経済にしっかりと貢献している。そんなレバノン商人の過去と現在を調べてみた。
■レバノン系財閥がガーナ経済を支える?
レバノン人のビジネスは、規模が小さなものから大きなものまでいろいろ。業種も多岐にわたっている。中小のビジネスでは、コンピューター用品店や宝石店、家具店、レストランなど。大規模なものだと、ホテルやショッピングモール、不動産、自動車販売などがある。ショッピングモールは、食品や生活雑貨などの輸入品を豊富に取り扱っていることから、ガーナ在住の外国人にとっては不可欠な存在になっている。
家族経営で数世代にもわたって大規模なビジネスを展開しているレバノン人の一族もいる。その代表格がカルモニ家だ。この一族は3代にわたってこの地で商売をしてきた財閥のひとつ。2012年にはガーナで商売を始めて100年を迎えた。
カルモニ家の事業は多種多様だ。日産車を輸入販売する「ジャパン・ モーターズ」、メルセデス車の輸入販売会社「シルバー・スター・オート」、不動産開発の「アドバンス・コンストラクションズ」や「レイクサ イド・エステイツ」などを経営。首都アクラの商業地区エアポート・シティに10階建ての賃貸用オフィスビル「シルバー・スター・タワー」を2005年には建設し、大きな注目を集めた。
レバノン系の財閥はカルモニ家だけではない。プラスチックパイプを製造し、アフリカ20カ国以上に輸出する「インタープラスト」のファクーリ家や、アフリカンデザインの布製品を製造販売する「プリンテックス」のミレット家、製造業や貿易業を手がけるグループ企業「ヒティ・グループ」のヒティ家などもその名をとどろかせている。挙げればきりがない。
レバノン商人のビジネスが多くの雇用を創出し、新分野を開拓し、ガーナ経済を活性化しているのは一目瞭然だ。インターナショナル・グロース・センターのレポート(2012年)はガーナの主要企業50社を挙げているが、そのうちの9社はレバノン系。つまり、ガーナ経済の中核の約20%を握るのは、レバノン商人ということになる。彼らは、ガーナ経済を陰でしっかり支えているのだ。
レバノン、ガーナ両政府も、お互いの経済的な重要性を認識しているようだ。レバノンのミッシェル・スレイマン大統領は2013年3月、ガーナを訪問。ガーナとの二国間貿易協定に調印した。協定の期間は2013~15年の3年間。通商、金融、産業、農業、観光の5分野で協力を促していくことが狙いだ。
ガーナのジョン・マハマ大統領も「ガーナには多くのレバノン人がいる。彼らはガーナの文化や歴史と一体になっており、非常に重要な存在」と話す。
■アメリカ大陸に渡れず西アフリカに定住
レバノンとガーナの関係はいつごろから始まったのだろうか。米ハーバード大学のエマニュエル・クワク・アチャンポン教授によると、レバノン人が最初に西アフリカにやってきたのは、いまから150年以上前の1860年代。たどり着いた場所は、アフリカ大陸の最西端、セネガルの首都ダカールだったという。
レバノンはそのころ、キリスト教マロン派とイスラム教ドルーズ派(シーア派から分派)の間で対立が続いていた。そこにヨーロッパ諸国が介入。フランスがマロン派を、イギリスがドルーズ派を支援した。さらに、レバノンを当時支配していたオスマン帝国も、自らの影響力を強めようと介入する。1860年にはドルーズ派がキリスト教徒を大虐殺する。
この混沌の中で、多くのレバノン人は母国を離れた。地中海の港町マルセイユを船で出て、大西洋を渡り、南北アメリカやオーストラリアを目指した。ところがアメリカ大陸に渡る資金がなくて西アフリカに定住したり、アメリカ大陸を目指したが間違って西アフリカに上陸してしまったレバノン人もいたといわれる。
レバノン人たちはその後、生計を立てるためビジネスチャンスを求め、ダカールから海岸沿いに南下。1890年代にはギニアで商売を始め、フランス商人と対等に渡り合うまでになっていた。これに危機感を覚えたフランス政府は、レバノン商人に高い関税をかけるなどして対抗。商売のしにくさを避けようと、シエラレオネなどの隣国へ移ったレバノン商人もいたようだ。
こうした流れでレバノン人はアフリカ大陸を南に下り続けた。1900年代に入り、コートジボワール、ゴールドコースト(現在のガーナ)、ナイジェリアに到達した。
レバノン商人たちは、1910~45年になるとヨーロッパの大手貿易会社と西アフリカの消費者・農民を仲介する役割を果たすようになる。ユニークなのは、ヨーロッパから輸入した消費財を小分けにして、アフリカ人が買える価格で売っていたことだ。いまでいうBOP(Base of the Pyramid)ビジネスの「小袋戦略」と同じことを100年前にやっていたことは特筆に値する。
たくましいレバノン商人たちは、ヨーロッパ人が行きたがらない辺境地まで進出し、西アフリカをヨーロッパの貨幣経済圏に組み込む役目を果たした。この事実を知って私は、レバノン商人の知られざるプレゼンスの高さと開拓精神の強さにとても驚いた。
■レバノン人の8割は外国で暮らす
1975年に始まったレバノン内戦で、多くの有能なレバノン人が国外へ流出した。これに追い打ちをかけたのが、1982年に起きたイスラエルのレバノン侵攻だ。レバノン人が移民する流れをいっそう加速させた。
ガーナ・アクラでコンピューター用品店を営むレバノン人男性(57)は5年前、親せきの誘いでこの国にやってきた。「レバノンの情勢は不安定すぎる。安心してビジネスができる状態ではないよ。妻と娘は、いまはクウェートで平和に生活している。家族みんなでレバノンに帰って一緒に暮らしたい」と切実に語る。
祖国の政情不安を背景に、外国へ移住するレバノン人は増加する傾向にある。米ギャラップの調査によると、レバノンの2010~12年の「潜在的総移住指数」(Potential Net Migration Index:PNMI)はマイナス4%だった。PNMIとは、その国(レバノン)への移住希望者(成人)から、その国(レバノン)を離れて暮らすことを希望する成人の数を差し引いた数値だ。数値が低いほど、潜在的に人口が減ることを意味する。
英エコノミスト誌によれば、レバノン国外で暮らすレバノン人は1500万〜2000万人。レバノン国内のレバノン人は約400万人だから、レバノン人は国外在住者のほうが4~5倍多いことがわかる。このデータはPNMIの信ぴょう性を裏付ける。
祖国から遠く離れた西アフリカでビジネスに成功するレバノン人たち。紛争で国を追われ、家族と離れ離れになっても、異国の地で頑張る彼らのバイタリティに私は圧倒される。政情不安がビジネスにもたらす悪影響をよく理解し、移住を繰り返してきたレバノン商人にとって、政治も治安も安定しているガーナは“天国”に映るのかもしれない。
とはいっても、私はやっぱり、ガーナ人にも頑張ってほしい。この国には無職の若者があふれかえっている。インフォーマルセクターの雇用も全体の約7割も占める。雇用を増やすためにも外国人頼みの経済ではなく、ガーナ人の起業精神に期待したいところ。西アフリカで力強く生き抜くレバノン人経営者たちと出会い、国民が自立し開拓心をもつことが国家の発展には必要だと感じた。
(矢達侑子)