「ひとり、ふたり、あそこにもひとり」。フィジーの都市部に行くと私が思わず目で追ってしまうのは女性の格好をした男性、ゲイの人たちだ。驚くことに、フィジーで出会う同性愛者の多くが、自分の性的指向をカムアウト(告白)している。社会的な少数者(マイノリティー)であるはずの彼らが進んで自らを公にする背景には何があるのか。フィジーの同性愛者を取り巻く事情を考えてみたい。
■国民の1割以上が同性愛者
膝上丈にカットされたショートパンツに女性モノのバッグを肩にかけ、内股でやや猫背ぎみに歩く。フィジーの街でよく見かける典型的なゲイだ。この国ではゲイに限らず、レズビアンやバイセクシャル(両性愛者)も多い。女性や社会的弱者の権利保護を訴える国連機関UNウィメン・フィジーによると、同性愛者の数はフィジーの人口の1割(8万人)を超えるという。
フィジーの同性愛者たち(特に若者)の特徴は、一貫してオープンで自らの性的指向を隠そうとしないことだ。服装や言葉遣いはもちろんのこと、ファンデーションを顔に塗って出歩く“強者”もいる。仲睦まじく同性同士肩をぴったり密着させて歩いたり、靴やかばんをペアルックにしている同性カップルに遭遇したこともある。
「わざわざ隠すのって面倒じゃない。同性愛を打ち明けたところで誰も何も気にしないもの。むしろ興味を示してくれる人もいるくらい」と言い切るのはフィジー系インド人(フィジー・インディアン)でゲイのアシュニールさん。彼は、フィジーの西部にあるシンガトカ町役場で働く私の同僚だ。仕事でもプライベートでも自分が同性愛者であることを公にしているが、偏見も差別も何もないのだと言う。
「同性愛者であることで苦労したことは?」。私がこう聞くと、「なぜそんなことを気にするのか。日本ではどうなのか」と逆に質問攻めにあってしまった。どうやらフィジーでは同性愛者であることを特別に扱うこと自体が不自然であるらしい。
■2009年まで反同性愛法があった
フィジーは途上国では珍しく、同性愛者に対する差別の撤廃を政府がうたっている。差別はもちろん、同性愛者を特別に優遇すること(いわゆる「アファーマティブ・アクション」)も許さない。同性同士が付き合ったり、性関係をもったりすることは自由だ。
同性愛者の権利確保にフィジー政府がここまで熱心になったのには理由がある。フィジーでは1997~2009年の13年間、同性同士で性関係を結ぶことは「犯罪」だった。見つかった場合、禁固刑ならいいほうで最悪は死刑になる可能性すらあったのだ。
根拠となっていたのは1997年制定の法律。問題の法律はフィジーの植民地時代(フィジーの独立は1970年)に制定されたイギリス由来の「ソドミー法」(反同性愛法)の流れをくむものだった。こんな環境では同性愛者たちは普通に恋愛をすることさえできず、自分の性的指向を隠さざるを得なかったに違いない。
この反動なのか、開放的な民族性が影響しているのかはわからない。だがフィジーの同性愛者は、いまは進んで自分の立場を公言するし、自己主張もする。もっといえば周囲とコミュニケーションをとるために、同性愛者であることを“ネタ”にしている気さえする。アシュニールさんによれば、同性愛者同士が集まる地域のグループまであるらしい。
■ゲイに理解があるのはどっち?
日本的な感覚でみると、マイノリティーの同性愛者たちは肩身の狭い思いをしながら暮らしているのでは、と同情しがちだ。日本に限っていえば異性に扮してテレビ番組に主演するタレントなどは市民権を得てきてはいる。ただこれは「特別扱い」で、日常生活レベルで同性愛者への理解が進んでいるかといえば答えはノーだろう。
翻ってここフィジーでは、そんな心配は無用なようだ。ゲイにしてもレズビアンにしても彼・彼女らなりの信条、考え方なりに従ってのびのびと構えているように見える。最初から周囲に打ち明ける方が、後々隠す必要もなく気楽なのかもしれない。外国人である私にだって、平気でアプローチしてくるくらいなのだ。
自分のセクシャリティーに極めて自覚的で、むしろ誇りをもっているように感じられるフィジーの同性愛者たち。私は同性に気があるわけではないが、「包み隠さず、自分に正直に生きる」といった彼らに惹かれてしまうのも確かだ。ただこんなことを口に出したら寄ってこられるのは間違いないので、こっそり胸にしまっておこう。(高野光輝)