“決まった1つの答え”を先生がすぐに言う
たとえばハエの問題。マリパにはハエがうっとうしいぐらい多い。とりわけ雨季に入ったいま、ご飯を食べようにも食卓にハエが数十匹とまっていて「食事前のハエたたき」が慣習となっている家さえある。
豊かな自然に囲まれて育ち、飢えを知らないこっちの人たちは、一度に作る食事の量が半端なく多い。5人家族なら1キログラムのご飯を一気に炊くことだってざらだ。
とても食べ切れない。ということは大量の食べ残しが出る。もったいない、という概念がない彼らはそれを1日中台所や食卓に放っておく。また庭にドサッと捨て、土や何かで覆ったりしない。ハエにとっては格好のえさ場となる。
また料理をするときも、食事の前も、まず手を洗わない。さらに食べ物や飲み物を平気で床に置く。私が勤務するベネズエラ環境省マリパ事務所では驚くなかれ、食器を洗うスポンジでトイレまでそうじする始末。
衛生観念が極端に欠けているのだ。これでは病気が蔓延しないほうがおかしい。
次にマラリア。マリパではマラリアにかかることは日常茶飯事。10回以上かかったことのある人だって珍しくない。
ところがもっと奥地に行けば行くほど、ごみの量は減るのに、マラリア感染者の数は増えていく。対照的に、街はもっとごみだらけであってもマラリアは少ない。
マリパのごみ捨て場はサバンナにある。村の外れだから、道も舗装されておらず、水溜りもたくさんある。しかも自然が残っているので、虫が多いのは自然の摂理。そもそもマラリア原虫を人から人へ媒介するハマダラカは、水がきれいで流れのゆるやかな川などに生息する。だから単純に「ごみ(何のごみなのかはさておくとして)=マラリア伝播」とは決め付けられないのだ。
それにしても、どうして彼らは“論理的”に考えられないのだろう。
こちらの教育スタイルは他の途上国と同じく、典型的な“覚えさせる教育”だ。幼稚園から小学校、高校まで、先生の言うことを反復するのが、子どもたちの学習方法。私が授業をするときも「ごみって何だろう?」と数人の子どもたちに尋ねると、横で見ていた先生が間髪入れず「要らないもの、でしょ!」。考えさせる時間はわずか2~3秒。こんな短時間でどんな意見が言えるというのか。
だから子どもたちは「要らないものがごみです」と先生の真似をして答えるしかない。だからだれに聞いても同じことを言う。先生は大満足だが、そこには好奇心も、素朴な疑問も、オリジナリティーも、クリエイティビティーもない。
環境教育の可能性は無限大。環境を学びながら、他のことも学ぶことができる――とはよく耳にするフレーズだ。私もかつてはそう信じていた。でもいまはちょっと違う。たぶんそれは、それなりの教育レベルが備わったところでの話ではないのか、と。
“覚え込ませる教育”は、考えるというステップを省くだけに、思い込みが激しい、物事を単純化してしまう、人の話を聞かない、論理的に考えられない、新しいことを否定する――という人間を形成してしまう気がしてしかたない。
環境問題を理解してもらいたくても、論理は通らない。となると、論理的に考える方法を先に身に付けてから環境を学ぶ方がベターということになる。だけどそれは待てないし、論理的に考えられる人はすでに環境意識をそれなりに持っていることだろう。
“考える教育”が先か、“環境教育”が先か――卵と鶏ではないが、この悩みは日に日に膨れあがっていく。(続き)