開発に関心をもつ在英日本人学生が運営する非営利団体「英国開発学勉強会」(IDDP)は11月11日、英国のロンドン大学教育研究所(IoE)で、一般公開セミナー「労働政策と労働市場政策~南アジアからの視点~」を開催した。
講演者は、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)経済学部の宮村敏講師。変容する「労働市場制度」(LMIs)の理論を紹介しながら、1980~90年代のインドにおける「雇用なき成長」をはじめとする労働市場問題と政策議論について解説し、「根本的な貧困削減と社会的転換に必要なのは『労働に焦点を置いた開発』だ」と強調した。
宮村講師によると、LMIsと一口にいっても、それが何を指すのかが明確に定義されることは少ない、という。LMIsの理論で「雇用と賃金を決定する非市場的要因」とか「労働市場の機能を規定する法規・組織形態」などと抽象的な定義が与えられることはあっても、実際どういう法規、組織形態が含まれるのかは研究者によって解釈が異なる。国際通貨基金(IMF)も出版物のひとつで「LMIsの理論はいまだ発展途上」と評価しているくらいだ。
LMIsの定義が難しい理由は、「制度は『モノ』ではなく、その特定の経済発展パターンを規定する『社会関係』の表現だから」というのが宮村講師の見解だ。どのような政策・制度が労働市場を規定するかは、その社会的、歴史的条件によって多様であり、必然的に特定の社会的条件に応じたLMIsの分析が必要となる。
■南アジアの「雇用なき成長」
LMIsの議論の中でしばしば議題に上がるのが、インドのケースだ。
南アジアの経済成長は「経済の成長に雇用の成長が追い付かない」といわれる。これを「雇用なき成長」と呼ぶ。
インドを例にとると、1971~2010年の国内総生産(GDP)成長率は年率で3%から8.3%へと上昇した。だが驚くことに、同時期の公共部門の雇用伸び率は4.2%からマイナス0.45%へと下がっている。また民間組織部門の雇用も経済成長率を下回ってきた。
雇用の内訳をみると、就業者の約9割がインフォーマル部門や非組織部門。インフォーマル・非組織部門の雇用は統計でとらえにくいことから、実際の雇用は増加しているが、データとして表れていないだけとの見方もある。
ただいずれにしろ、インフォーマル・非組織部門の仕事は、労働条件が悪く、賃金も低いものがほとんど。「ディーセント・ワーク」(働きがいのある人間らしい仕事)とは正反対であることから、インフォーマル経済での雇用を問題視する研究者も多い。
■「市場歪曲派」と「制度派」の対立
LMIsの理論は90年代半ばまで、「市場歪曲派」と「制度派」という2つの考えに分かれていた。
市場歪曲派は、LMIsは労働市場のメカニズムを乱し、経済効率を低下させているという“否定的な立場”をとる。わかりやすくいうと、労働法の存在や組合による賃金交渉は、賃金や雇用を市場の「均衡」からかい離させる。その結果、完全競争的な労働市場での「最適な資源配分」と比べて、社会的な無駄が発生するという考え方だ。
市場歪曲派の理論を労働市場政策で代表したのが90年代半ばまでの世界銀行で、各国の労働市場への政策・制度的介入を減らすことを目的とした施策を進めた。
対照的に制度派は、LMIsが市場にさまざまな便益をもたしうると主張する。たとえば労働組合の制度は、労働・経営間の情報共有を促進することで、経営者が労働者を監視する費用を下げたり、労働者の不必要な離職をさけられるなど、労働市場の中の「情報の非対称性」(不完全な情報)による問題の軽減につながるという議論である。
さらに、労働組合などのLMIsが機能すれば、労働調整、賃金決定や昇進などで労使関係の協調や長期雇用の維持を促し、企業に特殊的な人的資源に対する投資や仕事をしながらの実地指導(OJT)を向上させるなど、企業統治における「取引費用」を低下させる可能性も指摘された。こうしたLMIsのプラス面に着目した主張のひとつとして「集団の声」論が紹介された。
このように「市場歪曲派」と「制度派」はLMIsの経済効果について両極に位置しているように見受けられる。しかし宮村講師は、「双方の理論枠組みに共通するものも多い。どちらの理論枠組みも『外生要因』としての労働市場制度が、経済効率や生産性を低めたり高めたりする『結果』を生む、という因果関係に基づいていることに注目したい」と論じた。
■インドの労働市場政策をめぐる議論
市場歪曲派と制度派の立場は、南アジアの「雇用なき成長」の理由を探るうえでも、それぞれの考え方が議論に反映されていておもしろい。
市場歪曲派の論者は、80年代にインドのLMIsによる名目賃金の上昇が労働市場の「硬直性」を反映したものとし、労働市場改革の必要性を唱えた。つまり労働法や組合などの影響で賃金が向上したことにより、組織部門で新しい雇用も生まれにくくなる、という主張だ。これに対し、実質賃金は大幅には上昇しておらず、賃金上昇なしに労働生産性や資本・労働比が上がっていたことから、労働市場はむしろ「柔軟」であるとの反論もある。
また、市場歪曲派の典型的な主張である、労働組合が強すぎて、企業の効率的な経営を妨げているとの意見については「経営側が労働者を職場から締め出す『ロックアウト』が増えるなど、60年代半ばから労働争議の性質が変化してきた」と反論する学者は少なくない。
これに対して制度派の立場からは、雇用なき成長の原因は労働法や労働組合では必ずしもなく、インドの産業構造にあると主張し、その一例として極端な「二重構造」(大企業と零細企業に比べ、中規模企業の数が極端に少ない状態)に注目する者もいる。インドの労働市場構造は、大規模工場制工業と小規模家内制工業の両極の間をつなぐ技術的連携が形成されない歪な企業発展のあり方によるものとして、より包括的な分析・政策議論が必要だ、という考えだ。
■市場歪曲派と制度派が合流?
市場歪曲派と制度派の立場に歩み寄りが見え始めたのは90年代の半ばからだ。これは、市場歪曲派を代表してきた世界銀行と、伝統的に制度派の立場から社会民主主義に基づく労働基準を国際レベルで要求してきた国際労働機関(ILO)の労働市場政策の変化に見てとれる。
世銀の政策の変遷について宮村講師は「95年の世界開発報告(WDR)の発表あたりから、世銀は労働条件の保護や雇用創出の重要性に注目し、そのための政策や制度の役割を認識するようになった。ただし全ての労働市場制度や政策が効果的なわけではなく、これが、グッド・ガバナンスの政策アジェンダや、『仕事』をテーマに置いた13年版WDRでの「グッド・ジョブ」の概念につながった」と述べた。ILOについても「98年からの『ディーセント・ワーク』アジェンダにもみられるように、雇用の質に焦点を当て、最貧困層に焦点を絞った社会的保護政策を推進し、組合に限らない広く市民社会組織の役割を強調している」と双方の労働市場政策の共通点を紹介した。
ただそれでも、経済成長と貧困削減の「手段」として雇用をとらえる世銀と、雇用の「質」を最重要視するILOの間には、考え方の相違がまだ根強くあるのも事実だ。また、「根本的な議論の構造としては、どちらも雇用創出や貧困削減などの『結果』を、政策や制度を導入したり変えたりすることで実現しようとするという意味で、やはり共通の因果関係を想定している」と宮村講師は指摘する。
■行為主体や過程に焦点をおいた「開発」の重要性
LMIsと経済発展の関係を考えたとき、難しいのは、先進国や急進国のLMIsを途上国にそのまま移植しても、同じように機能するとは限らないことだ。
その理由について宮村講師は「LMIsは、経済変化にとって『外生的』なものではなく、特定の歴史文脈における経済社会発展のパターンに規定され、またそれを規定もする『内生要因』だから」と説明。その上で「経済成長や貧困削減、雇用創出などの『結果』に依存した開発政策は、施行される地域の所与の社会・政治構造に依存するのが現状で、その効果には限界がある」とし、「行為主体がどのように政治的・社会的に組織化されうるかを見ることが大事で、『労働に焦点を置いた開発』のあり方が必要だ」と講演を締めくくった。(ロンドン=松栄健介)