華人の出身地として有名なのは、言わずもがな、広東と福建だろう。その理由はここではさておくとして、なんてったって人数が多い。いろんな国のチャイナタウンを訪れても、飲茶に代表される広東料理はどこででも食べられるし、ウーロン茶だっていまや広く飲まれている(中国で一番ポピュラーなのは緑茶なのに)。
東南アジアでもそれは同じ。華人が人口のおよそ3割を占めるマレーシアを例にとっても、首都クアラルンプールのチャイナタウンで話されているのは広東語。ペナンでは福建語が耳に飛び込んでくる。ただどちらかといえば、アモイや泉州をはじめとする福建系のほうが東南アジアにはたくさん住んでいるような気がする。
■タイ滅亡を阻止した救世主?
そんな中、ちょっと事情が異なるのが“隠れた華人国家”のタイだ。潮州系が群を抜いて多く、ものの本によると、タイの華人の56%が潮州から来たという。これに続くのが、客家(16%)、海南(11%)で、広東と福建はともに7%のみ。タイの華人に出身地を実際に尋ねてみても「潮州」(または「よく分からない」)と答える人がほとんどで、私はバンコクに住み始めたころ「なぜだろう?」と不思議に思っていた。
その謎は、タイの歴史にあった。
タイ族による最初の国が興ったとされるのはスコータイ王朝(13世紀~1438年)。その後、アユタヤ王朝(1351~1767年)が成立し、スコータイ王朝の土地を奪い、クメール王朝(現在のカンボジア)を攻撃するなど、その名を東南アジアにとどろかせた。しかし、山田長政も仕えたこのアユタヤ王朝も幾度となくビルマの侵攻に悩まされ、1767年には遂に滅亡。アユタヤの町は徹底的に破壊されてしまった。
タイ族による国家滅亡の危機を救うべく、ビルマを撃退し、タイの独立を回復したのが、潮州系の華人、タークシン(中国名:鄭昭)だった。同郷の華人(潮州人)をかき集めて勢力を固め、すぐさま、チャオプラヤ川の西側(バンコクの中心地の対岸)にトンブリー王朝(1767~1782年)を建設したのだ。
タークシンは父が潮州人、母がタイ人。アユタヤ王朝の高官のもとに養子に出されて育った。成人してからは、地方を治める職に任命されるなど出世。トンブリー王朝の国王となってからはタイ全土を支配下に収め、ラオス、カンボジアまでを領土に組み入れた。
ところが、華人であること(アユタヤ王朝の血を引いていない)をコンプレックスに感じていたタークシンはその後、精神をおかしくした。このため国内が混乱するのを恐れた家臣チャオプラヤー(現王朝のラーマ1世)によって処刑され、トンブリー王朝はわずか15年で幕を閉じた。
■長江実業の創設者も潮州人
さてここで指摘しておきたいのは、“華人の王朝”が存在したこの15年の間に、タイ国内での華人による商売が奨励され、潮州を中心に大量の華人がタイに流れ込んだ事実だ。なかでも潮州系は「王室華人」ともてはやされ、高い地位を与えられたといわれる。このときの名残で、いまもタイには潮州系の華人が大多数を占めているのだ。元首相のタクシン(国王のタークシンとはタイ語のつづりが違う)こそ潮州系ではないものの、タイ社会を牛耳る華人の中にはもちろん潮州系は少なくない。
潮州とはそもそも広東省東部に位置する市で、総人口はおよそ250万人。潮州系の華人は、タイを筆頭に230万人もいるらしい。余談だが、香港で幾度となく食べた潮州料理は小魚のから揚げなど、シンプルな味付けが日本人向きで、なかなかおいしかった。参考までに。
タイの華人ではないが、潮州人の実業家で世界的に知られているのは、香港のデベロッパー、長江実業の創設者、李嘉誠だ。アメリカのフォーブス誌は2008年、李嘉誠を世界で11番目の富豪にランク付けした。日本とのかかわりをいえば、次男のリチャード・リー(李沢楷)が通信会社パシフィック・センチュリー・サイバー・ワークスを率い、東京・丸の内にパシフィック・センチュリー・プレイスを建設している。
さすがの華人パワー。ただ実は、華人が東南アジアに王国や独立国またはそれらしきものを築いたのは、タイのトンブリー王朝だけではない。ベトナム南部のハティエン(17世紀末)やインドネシア・カリマンタン(ボルネオ)島のポンティアナック(18世紀末)にも、サイズこそ小さかったようだが、半独立・独立国をつくった。
タイを、タイ人に同化しながら支えている潮州人たち。祖先が暮らす中国ではそんなに目立った存在ではなく、いわばマイノリティーだったかもしれない。だが移民先のタイではドンと主役を張っている。