この連載の最終回は、伝統芸能が失われつつあるカンボジアの将来について考えてみたい。
グローバリゼーションを背景に伝統文化離れが進み、カンボジアの伝統芸能が存続の危機に瀕していることは連載第1回で書いた。その一方で、カンボジア政府は観光産業をてこに伝統芸能の復活に力を入れ始め、またカンボジア国内や海外のNGOも粘り強く伝統芸能の保護に努めている。
カンボジアの現地調査(2012年7~8月)では、クメール文化の伝統芸能を復興させようと頑張るカンボジアの若者や、彼らを支える組織や先生と出会い、話を聞かせてもらった。その中でも、カンボジア社会が伝統芸能に無関心という現実と向かい合う1人の先生のことを私は忘れない。
その先生は、芸術初等学校で伝統芸能を教えていた。芸術初等学校の予算が削られる中、彼は自腹で、仮面劇で使う仮面や衣装を購入し、仮面劇の公演を支えていた。
私は彼に質問してみた。「どうして伝統芸能を教える先生の役割が今のカンボジア社会では認められないのか」
すると彼は突然、涙を流し、苦しそうに言葉を絞り出した。「私はその質問に答えられない。つらすぎる。ただ社会が認めなくても、自分は教え続けるしかない」
カンボジアの文化を守ろうとしているのに、その活動の価値を認めないカンボジア社会。先生の悔しさを目の当たりにして、私は何とも言えない気持ちになった。
経済がテイクオフしたカンボジアは、私からすれば、「目に見える経済価値」だけを追いかけているように映る。身の回りにある家電製品が増えることを、自分の身なりがきれいになることを、人々はただ純粋に求めているように思う。街には、日本でも見られないような目新しい高層ビルの建設が進む。そうしたこと自体、もちろん悪くない。日本人の私がとやかく言うことでもないだろう。
ただ、経済発展が一段落したとき、彼らのアイデンティティーにかかわる文化のよりどころになるものが必要になるのではないだろうか。経済発展を追い求める社会で、古典芸能を教える先生は、自国の文化の価値を信じている。その姿をみて、文化を継承しようとする若者もいる。
私は、伝統芸能の価値をカンボジア社会が真に認める日が来ることを願う。だが日本人として、どうやって力になればいいのだろう。はっきりとした答えはないが、せめてカンボジアの伝統芸能の良さを私自身が理解し、その良さを少しずつでも世界に発信していきたい。
まぶたを閉じると、現地調査で話を聞かせてくれた生徒たちやアーティスト、先生など一人ひとりの顔が鮮明に浮かんでくる。彼らの真摯な思いと着実な活動の積み重ねはひとつのうねりとなって、カンボジアの伝統芸能の未来を支えていくことだろう。(この連載は終わりです)(原隆宏)