日本アフリカ学会の第50回学術大会が2013年5月25~26日、東京大学駒場キャンパスで開催された。日本各地のアフリカ研究者が一堂に会し、紛争、宗教、生活文化など多様なテーマで発表した。開発メディアganasは2回にわたって、日本のアフリカ研究の最前線を追い、発表の一部を紹介する。1回目は、民俗学的な視点から、富山大学人文学部の藤本武准教授の研究を取り上げる。
■自由度・規模・対価はいろいろ
エチオピア西南部に位置する急峻な山地でムギなどを栽培して生活する農耕民を「マロ」と呼ぶ。人口は推定5万人だ。
マロは、家の周囲にある庭を畑にした農耕(家庭菜園)は、家族で耕す。しかし、その外側の広大な畑では、協同労働の手法を採ってきた。ここでいう協同労働とは、個人や家族でまかなえない広い農地の耕作などに必要な労働力を、近隣の住民などとの協力で補完しあう労働慣行だ。具体的な作業は、樹木の伐採や畑の耕起、除草などがある。
藤本准教授によると、マロの協同労働には大きく分けて3つの形態が存在するという。ひとつはダボと呼ばれるもので、30人またはそれ以上の人数が一緒に集中的に働く。有力者の呼びかけで、不定期に単発で実施されるが、協力するかどうかはそれぞれの農民が自らの意思で決めることができる。義務ではない。
ダボの対価は、盛大なうたげへの参加だ。ぜいたくな飲み物や食べ物が振る舞われるほか、歌や踊りもある。
ケテという形態もある。これは、緩やかなメンバーシップをもつ10~30人で実施される。協同労働を依頼する人は交替制で、労働の対価は、やや豪華な食事の提供だ。
またザフェは、明確なメンバーシップをもつ10人以下の少人数で頻繁に行う協同労働。参加は義務という。仕事を依頼した畑の所有者は質素な食事を出す。
■経済自由化で賃労働が台頭
ところが、マロの生活を長年研究してきた藤本准教授は「マロの協同労働のカタチは時間とともに変化してきた」と指摘する。
1974年のエチオピア革命以前の帝政期には、入植してきたアムハラ人や地元の有力者が地主として、マロが住む地域に君臨していた。その一方で大半の農民は、土地を持つことを許されず、社会的な不均衡が生じていた。
この時代には、一部の有力者が多数の人間に呼びかけ、ダボを催すことで労働力を確保している。そのため、ダボは帝政期、最も重要な協同労働の形態だった。
ところがエチオピア革命の後、その状況は一変する。
革命の結果、有力者の土地は取り上げられ、多くの農民は、奪われた土地を回復した。そのため、かつては有力者によって大々的に催されたダボは激減し、その代わりに中規模に行われるケテがブームとなった。だがそのケテもまた、仕事を依頼する側の負担が大きいことから、衰退していく。
そうした状況と並行して、人口の増加を受け、1人当たりの土地面積は減少。また農業の集約化が進み、さらには、アルコールの飲用を禁止するジョン・キリスト教(伝説の東方キリスト教国の王プレスター・ジョンのキリスト教)の普及も相まって、ダボとケテはその魅力を失う。1980年代半ばからはザフェが協同労働の中心的役割を担うようになった。
1991年の政変後の経済自由化で、輸出向け換金作物の栽培が増え、自家消費用の農作物を作らなくなったことも、負担する対価が少ないザフェの普及を後押しした。
ただ近年に入って、いずれの協同労働も消えつつあるという。藤本准教授は「一部の地域ではすでに、農業にも賃労働が採用されるようになった。協同労働を経験したことがない若者も増えている。ザフェもまた滅びつつある」と説明する。
伝統がいまも残っているイメージの強いアフリカ。しかし歴史を追うと、政治・経済的な状態の変化と軌を一にして、労働のカタチは変わり続けてきたことがわかる。