アフリカは貧しさしかないのか、マダガスカルの農村から考える

首都アンタナナリボ郊外の農村。マダガスカルの伝統的な家

「アフリカは貧しくない。一度来てみればわかる」

これは、日本に留学し、そのまま就職したマダガスカル人、アンドニアイナ・ブリスさんの言葉だ。そして残念そうに続けた。「アフリカには素晴らしいところがたくさんある。なのに、日本では、貧困ばかりがクローズアップされていて悲しい」

アフリカ諸国の1人当たり国内総生産(GDP)をみると1000ドル(約10万円)前後の国が多い。5万ドル(約500万円)弱の日本と比べれば、確かに劣る。ただこれはあくまで、経済、言い換えればお金というモノサシで見た話だろう。

マダガスカルの首都アンタナナリボ出身のアンドニアイナさんによれば、そもそもマダガスカル人の75%が農民で、食べ物には不自由していない。「農民は、都会の人たちとは違う。都会の人たちはお金がないと食べていけない。だが農家はお金がなくても、自然からたくさんの食べ物が採れる」

マダガスカルの農村では1990年代半ばまで、お金はさほど重要ではなかったという。ところが、国営企業の民営化、投資法の改正、貿易の自由化などの政策を強化したため、通貨の流通量が増加。加えて西洋の文化がたくさん入ってくるにつれて、貨幣文化が浸透してきた。

だが農村にはいまも、現金を必要としない生活が残っている。モノは個人が所有せず、コミュニティのメンバーで平等に分かち合う習慣もある。

アンドニアイナさんの目には、金持ち日本は豊か、とは映らない。「日本人観光客がマダガスカルで買い物をする様子を見たときは正直、なんて金持ちなんだと驚いた。でも日本で暮らしてみると、マダガスカルの農村だったらタダで手に入る新鮮な野菜の高いこと!」

考えてみれば、貧困の定義は、お金以外にいろいろあってもおかしくないはず。定量的なデータも意味がないとは思わないが、一義的には、その土地に暮らしぶりや価値観、本人の感覚が重要ではないか。

マダガスカルの農村の生活では、家電を必要としない。たとえば冷蔵庫に食べ物を入れて保管しなくても、農地には新鮮な野菜や果物がたくさんあり、すぐ採りに行ける。テレビもないけれど、家族団らんをマダガスカル人は好むから、不便さはない。自然環境や家族といったモノサシでマダガスカルの農村をみると、「むしろ日本のほうが貧しいのでは」とアンドニアイナさんは言う。

飢餓、貧困、内戦、難民、野生動物――こういった画一的なアフリカのイメージは間違ってはいない。だがすべてでもない。人口9億2500万人(世界の14.2%、2006年)の広大なアフリカ大陸、そこには人の数だけさまざまな暮らしがある。当然、暗い話もあれば、明るい話もある。

マダガスカルの農村生活には、お金では測れない豊かさがある。お金というたったひとつの尺度で、国と国を比較するなんて、ましてそれを豊かさの基準とするなんて、やはり愚かな気がする。

でもここにきて、世界は変わりつつある。ブータン政府は国民総幸福量を重視した政策を進め、2012年に開かれた国連持続可能な開発会議(リオ+20)でも幸福度(well-being)が取り上げられた。また国連は「包括的な豊かさの指標」(IWI)を発表し、さらに日本の内閣府は「幸福度に関する研究会」を開いて「日本は主観的幸福感が低い」と潜在的な問題点を指摘した。

GDPから見ない豊かさを世界が本気で考え、追求するようになったとき、「アフリカ=貧しい」というステレオタイプな見方が崩れるかもしれない。(金田有香里)