南の島に渡った日本人神父③~試される「人としての器」~

マンギャンの人たちはたくさんのレコードをもっていた。お祭りのときにかける。雑音がひどかった

サンホセに戻るとファーザー・トニーが「どこかで飲まん?」と誘うので、僕らは海べりにある野外の料理屋へ行った。黄昏時の海風が頬をなでる。山より海の方が快適だと改めて実感する。

「バンバン村で奉仕していたオランダ人神父、いま何しとると思う?」

ファーザー・トニーが不意に問いかけてきた。

「恋仲になったマンギャンの娘と駆け落ちし、別の村でひっそりと暮らしとる。神父向けの年金ももらっとらんらしいよ」

「その神父、いくつぐらいの人なんですか」

「うーん、今はもう70近いんじゃないかな。人生、どうなるか分からんよ。この手の話は多いんだわね」

酔いが回ってきたのか、それとも僕に親近感を抱いたのか、ファーザー・トニーは意味深げに喋った。周知のようにカトリック神父は結婚できない。家庭を持つと、その家のファーザー(父親)になってしまうためで、信者全員のファーザーが務まらなくなるというのがその理由だ。しかし実際問題、生まれてから死ぬまで家族も、性交渉も持たないというのは大変なことだろう。特に老いてからと若いうちは。

「教会法から時代遅れの決まりごとは取り除いてしまえばいいに。やっぱり結婚を禁じるというのは不自然だわ。でも上の人は頭が固いでね」

ファーザー・トニーの口調はますます滑らかになってきた。

これには僕も同感だ。東京でも、マニラでも、神父の痴話はよく耳にしたし、同性愛の噂が絶えない神父も少なくなかった。奉仕活動に身を捧げる半面、潔癖が求められる聖職者たちは、ストレス発散方法を多く持たない。サンホセのような田舎町では、若い女性の信者と一緒に歩くだけでも噂が立つという。

僕は冗談めかして聞いた。

「女性の信者からモテそうですね」

「全然だよ」

ファーザー・トニーは柔和にはぐらかしたが、視線は月光の照らす波頭に向けられていた。

ファーザー・トニーの一番のストレス発散方法はテニスだった。神父もテニスをするのか、との驚きが頭の片隅を一瞬よぎったが、夕方から一緒にプレーすることにした。白のテニスウェア、テニスシューズで身を固めたファーザー・トニーは神和住純のようだった。神父には見えない。ファーザー・トニーと知り合って以来、ステレオタイプの神父像は崩れつつある。

テニスコートにオートバイで乗り付けると、近くで遊んでいた子供たちがわーっと集まってきた。小銭稼ぎに球拾いをするためだ。

ファーザー・トニーは入念に準備体操をすると、「いくよー」と掛け声をかけ、勢いよく初球を打ち込んできた。コートに跳ね返ったボールは力強く、真っすぐだ。日暮れ時といえども照り返しはきつい。一球打ち返すたびに汗が滝のように滴り落ちてくる。

「ええボール打っとる。筋がええねー」

軽快なフットワークを見せながらファーザー・トニーは僕の腕前をほめた。

僻地での奉仕活動は体が資本なのだろう、ファーザー・トニーは稀に見るスポーツマンだった。30半ばというと日本のサラリーマンなら働き盛りで残業の連続、テニスどころではない。ビール腹が出てきてもおかしくない年ごろだ。1人当たりの国民総生産がフィリピンと40倍もの開き(1990年代前半当時)がある日本で、その気になればそれなりのサラリーを稼げるチャンスをなげうって神父になる人は、体つきから肌の張りまで違うと僕は妙に納得した。

1時間ほどで僕らはテニスを切り上げ、ファーザー・トニーは子供たちに数ペソ(10円ぐらい)のチップを渡した。

「こないだ両親が遊びに来たんだわね。ボールボーイに僕が小銭をあげるのを見て、『物ごいじゃないでね、よしなさいよ』って言うとった。でもここはフィリピンだでね」

ファーザー・トニーはサンホセで最も有名な日本人だ。そして神父でもある。おそらく彼の両親は、そういう立場の人が感謝の気持ちをお金で表す姿に違和感を覚えたのだろう。

「私はね、毎日、フィリピンの日本人神父として試されとるような気がするんよ」

「試されてる、何を?」

僕は真意を測りかねて聞き返した。

単に日本人だから、という訳でもないらしい。社会の保育器に入っていたような学生の身分では正直よく理解できなかった。しかしファーザー・トニーの年齢を超えた今の僕なら、なんとなく分かるような気がする。

奇縁というべきか、僕は大学を卒業してから、経済情報紙の仕事の関係で東南アジアを転々とした。フィリピンでは、そのうち3年超にわたって働かせてもらった。「マニラに会社をつくってこい」との社長の鶴の一声で、フィリピン支局の立ち上げから利益を出すまでわれながら孤軍奮闘した。

外国で、しかも人を使う立場になる。最初は請求書一枚発行するのさえ苦労した。コンピューターでフォーマットを作成し、「あとは入力しといて」とローカルスタッフに頼んでも、計算ミスのオンパレード。仕事を同時に2つ以上与えると、必ずといっていいほど一つを忘れてしまう。

教育レベルが低いから仕方ない、と自分の中で結論づけても、仕事となるとやっぱりカリカリする。僕の言うこともろくすっぽ聞いてくれない。日本流は通用しないのかと自問する日々が続いた。そして思い当たったのだ。人間としての「器」が試されているとはこのことだ、と。

日本では不道徳な行為と見なされても、フィリピンで奉仕する以上、いかに現地化できるかがこの地に生きる神父としては重要なのだ。冷静に考えてみれば、相手に心から信頼され、感謝されるまでのやり方は、それぞれ異なる歴史を歩んできた日本とフィリピンで多少違っていても全く不思議なことではない。

僕はいよいよサンホセを発つことにした。

ファーザー・トニーは僕が帰国すると知って、去年までの日本の生活を遠い昔のように振り返った。

「体格のいい仲間の神父と名古屋の繁華街を歩いとるとね、どこの人? って時々聞かれるんだわ。そんなとき神言会だと言うと、たいていの人は暴力団と勘違いして避けていくんよ」

神言会は、ドイツ人のジャンセン神父が1875年に創設した修道会だが、イエズス会や聖心会と比べて知名度は低い。そのうえキリスト教徒自体、日本では少数派だから、ファーザー・トニーはいわば宗教マイノリティーなのだ。

そのてんフィリピンでは、コラソン・アキノ元大統領がお祈りから国政演説に入っていたように、カトリックは浸透している。世界中のキリスト教徒は、たとえ言語や習慣、文化が一致しなくとも、共に神に祈りを捧げることさえできれば、どこの国の人ともやっていけると考えるのが一般的だ。

日本とフィリピン――。カトリックの布教史をさかのぼったとき、両国の結びつきは想像以上に強い。日本の隠れキリシタンが訳した新約聖書の一部では、ルソン島がベツレヘム(キリストの生誕地)で、キリスト、聖母マリア、ヨゼフ(マリアの夫)はフィリピン人になっていたという。宣教師たちは16~17世紀、マニラを東洋の伝道拠点にして日本に出向いていた。

フィリピンが「アジアのバチカン」と比喩されるゆえんである。

キリシタンの高山右近や内藤如安が、徳川家康が発布した禁教令によって国外追放され、1614年、マニラを目指したのは当然だった。熱病に冒され、到着後わずか40日ほどで昇天した右近は、臨終に立ち会ったモレホン神父にこう言い残したという。

「パードレ、私はもう死ぬと思いますが、神がそれを希望し給うのですから、喜び慰められています。こんなに幸せな時がこれまであったでしょうか」

アジアのバチカンでマイノリティーと共にミサを捧げるファーザー・トニーには、信仰の向こう岸に何が見えるのだろう。日本を偲ばせるマンギャン族に先祖のペーソスを感じているのか――。

「私はいま、幸せなんだわ」

別れ際にファーザー・トニーは、偶然にも、右近やマラナオさんと同じ言葉をつぶやいた。(おわり)