「貧困=不幸ではない」は間違いなのか? ミャンマーのダラ地区で見た本当の貧しさ

アナウエンジージュワ村のようす。家の周りにはごみが散らかっていた(ヤンゴン・ダラ地区)

「貧しいからといって不幸とは限らない」。こんな主張をする人が日本に、とりわけ若者の間には少なくない。ミャンマー・ヤンゴンの貧困層(いわゆる庶民)にインタビューすると、確かに現状に満足しているケースが多い。しかし、それは貧困層の中でも「上のクラス」の場合だ。どん底にいる人は幸せを感じる余裕などない。「貧困=不幸ではない」という主張は、途上国の上辺だけを見た日本の若者の思い込みに過ぎないのではないか。

取材で訪れたのは、ヤンゴンの貧困層が暮らすダラ地区。日本と変わらない高級なショッピングモールの建設ラッシュが続くヤンゴンのダウンタウンから、国際協力機構(JICA)が支援したフェリーに乗ってヤンゴン川を渡った対岸にある。ダラにはビルらしいビルは見当たらない。またダウンタウンの住人の多くがダラに行ったことがないことからも、ダウンタウンとダラの間には“見えない国境”がある。外国人の目からも格差は一目瞭然だ。

私はまず、ダラの中心部で10人にインタビューした。1日の1人当たり生活費は平均2392チャット(約195円)だった。これは世界銀行が定める貧困ライン(1人当たり1日1.9ドル以下=約2600チャット、約210円)を少し下回る数字だ。「人生に対する満足度は何%か」と質問してみた。平均は69%。2人の娘を育てるキンママさん(48)は「毎日が楽しい。苦しいことは特にない。家族と一緒にここで暮らせれば十分」とにこやかに話す。

同じ質問をダウンタウンに住む31人にぶつけてみた。結果は平均63%。ダラの中心部の数字を少し下回った。この数字だけ見るならば、貧しいから不幸とは限らない、ということになる。ここまでの取材では、「貧困=不幸ではない」という流行りの主張を裏付ける形となっていた。

状況が一変したのが、ダラの中心部から少し奥にある村へ行ったときだ。取材を続けようとサイカー(自転車にサイドカーを付けた乗り物)に乗って15分ほど走った。たどり着いたのは、アナウエンジージュワという村だった。

サイカーを降りた瞬間、貧しさの「レベル」がダラ中心部とは違うと気づいた。雨が降れば簡単に崩れてしまいそうな小さな家々。道を歩けば異臭がする。赤ちゃんの泣き声が響いていた。

8人に取材した。1日の1人当たり生活費は平均1400チャット(約110円)。世銀の貧困ラインの半額でしかない。この村に住むハニー・トゥンさん(23)は「村人のほとんどは自給自足のような生活を送っている」と話すが、周りの土地を見渡しても、荒れ果てていて、作物が育つような状態ではなかった。

村の人はたいてい、家の入口付近に座り、ぼんやりしていた。子どもはたくさんいたが、笑い声は聞こえない。村全体に悲壮感が漂っていた。それでも私がカメラを向ければ、笑顔を見せてくれる様子に私は内心ホッとした。

「楽しみにしていることは何?」と聞いてみた。この村に入って最初に出会ったドゥティンウィンさん(57)は「楽しみなんて何もない。人生に対する満足度はゼロ。苦しいことしかないから」。この言葉に過酷な現実を突きつけられた。

私は取材を続けた。だが、ほとんどの大人が「大変なことは家族と仕事の問題」と嘆き、子どもは「夢なんて特にないよ」と苦笑いする。人生に対する満足度を8人に尋ねたところ、平均41%。多くの人が困惑した表情を浮かべながら「まあ、半分半分かな?」と50という数字を挙げた。

アナウエンジージュワ村の現状を見て、「貧困=不幸ではない」となお主張することは私にはできない。世界に40億人(世界人口70億人の6割)もいるとされる貧困層の中でも、実際は貧困のレベルはさまざまなはず。多くの日本人が見ている現実はほんの一部に過ぎない。

「お金がすべて」ではない。しかし、お金が本当になくどん底にいる人を初めて見たとき、私は、一定の生活水準を満たした人しか幸せは感じられない、と悟った。アナウエンジージュワ村の周りにはサイカーは一台もいなかった。おそらくこの村を訪れる人はほとんどいないのだろう。知られていないからこそ、貧しさに対する誤解が生まれる。途上国援助は要らないとの声もあがる中で、本当の貧しさを、私たち先進国の人間は決して忘れてはならないと思った。

アナウエンジージュワ村(ヤンゴン・ダラ地区)の子どもたち。カメラを向ければ笑顔を見せてくれる。果たして彼らは心の底から笑えているのだろうか

アナウエンジージュワ村(ヤンゴン・ダラ地区)の子どもたち。カメラを向ければ笑顔を見せてくれる。果たして彼らは心の底から笑えているのだろうか