イラク西部のファルージャで2004年に武装勢力に人質として拘束された高遠菜穂子氏(47)が7月14日、過激派組織「イスラム国(IS)」がイラク最大の拠点とする北部のモスルをイラク政府軍・米軍などの有志連合が奪還する作戦(モスル奪還作戦)やISが生まれた背景について神戸市内で講演した。イラクを14年にわたって支援し続けてきた経験から高遠氏は「ISがモスルから撤退してもモスル市民の苦しみは終わらない」と厳しい表情で訴えた。
■解放後もモスルに帰れない
高遠氏がまず指摘するのは、モスルから逃れた人たちがモスルに帰還することの難しさだ。
イラクのアバディ首相は7月10日、2016年10月17日から266日間続いたモスル奪還作戦の勝利を宣言、「ISからモスルを奪還した」と発表した。しかし高遠氏によると、モスル市民の多くはモスルの解放を喜んだものの、モスルに帰らず、避難先にとどまっているという。
この理由について高遠氏は「国内避難民の多くは自分たちの中にIS戦闘員が紛れていると信じ、自爆テロを恐れている。また、モスルの路上にはIS戦闘員や市民の遺体が放置されており、遺体に爆弾が仕掛けられていることもある。照明をつけただけで爆発する爆弾があるなど、ISが潜伏していた家も安全ではない」と説明する。
高遠氏はまた、ISに対する疑心暗鬼がモスル市民の間にまん延していることにも言及。ISの協力者と疑われただけで逮捕されたり、嫌がらせを受けたりする市民は少なくないという。「家族や親せきにIS戦闘員がいるだけで、村八分にされる家族もいる。ISの協力者と噂された避難民は、モスルに帰れない」と問題を指摘する。
医療施設への被害も甚大だ。同氏によると、米国主導の有志連合による空爆とISの抵抗で、モスル市内の病院はほぼ壊滅状態だという。「ISは病院を占拠して有志連合と戦い、追い込まれた際は病院に放火して逃げた。ISの協力者と噂され、避難先からモスルに帰れない医者もいる。負傷者の治療に必要な医療機器も破壊された。モスルの復興にはかなり時間がかかるのでは」と高遠氏は危機感をあらわにする。
■イラク軍の残虐行為は次のISを生む
高遠氏はさらに、「暴力の連鎖を断ち切らない限り、イラクに希望は見い出せない」と強調する。この根拠として同氏が挙げるのは、「対IS」の名の下に正当化されるイラク軍の残虐行為だ。
モスル奪還作戦のさなかにイラク軍の従軍記者を務めていたイラク人のフォトジャーナリスト、アリ・アルカーディ氏が2017年5月に米国のニュース番組「ABC News」で暴露した映像では、イラク軍のエリート部隊が、ISに関与した疑いで市民を捕え、長時間拷問したり、裁判にかけずに処刑したりする実態が浮き彫りになった。映像に登場するイラク軍兵士は後日、ABC Newsの電話インタビューに応じ、映像が本物であることを認めたという。
「息子がISのために働いていた」との疑いで拷問を受けた羊飼いの男性は、目隠しをされた状態で両手首を後ろに縛られ、天井から1時間吊るされていた。IS戦闘員と疑われた囚人は、手を縛られた状態で2人のイラク軍兵士に背後から拳銃で9発発砲され、その場で処刑された。
これらはすべて「ISへの報復」や「ISは人間ではない」という理由で正当化された。「あるイラク軍兵士は映像の中で『拷問のテクニックは米軍に教わった』と証言している。米軍は2003年のイラク戦争の後、首都バグダッドの西にあるアブグレイブ収容所でイラク人を虐待し、ISが台頭する原因を作った。イラク軍の残虐行為は次のISを生むだけだ」(高遠氏)
実際、モスル近郊の刑務所に収監されている囚人の中には、イラク政府への報復を誓う者がいるという。「彼らにとってISという組織名は重要ではない。ISが滅びても、その思想は滅びない。憎しみの根源を絶たない限り、テロは広がり続ける」と高遠氏は語気を強める。
■空爆の民間人犠牲者は14倍に
高遠氏は、「『対IS』の名の下に民間人への暴力も正当化されているのでは」と警鐘を鳴らす。米国主導の有志連合によるイラクやシリアへの空爆を監視する英国の団体「Airwars」によると、モスル奪還作戦が始まった2016年10月の時点ではイラクの民間人の犠牲者の数は85人だった。ところが2017年3月には1212人と14倍以上に膨れ上がった。「この背景には米国の政策転換があった」と高遠氏は指摘する。
同氏の推測はこうだ。ISが最後まで抵抗を続けたモスル西部は歴史的な建造物が多く、人口が密集している。このためオバマ政権は民間人への被害を懸念し、人口密集地への空爆をためらっていた。だが、2017年1月にトランプ政権が発足して以降、米国はISに対して大規模な空爆をするようになった。ISはあえて人口が密集する住宅街で戦うことでモスル市民を「人間の盾」として利用し、その結果、民間人犠牲者が増えた。
暴力の連鎖が続く現状に、高遠氏は改めて危機感を募らせる。「世界には今、『テロリストを倒すためなら、民間人の犠牲も仕方がない』という空気がまん延しているのではないか。ISへの対テロ攻撃は、民間人の犠牲者と新たな憎しみを生み、『IS予備軍』を作ってしまう」
■イラク政府の「スンニ派狩り」が再燃?
モスルは今後、どうなっていくのか。高遠氏によると、モスルの壊滅的な現状を前にしても、帰郷して街の再建に取り組む人はいるという。高遠氏も7月上旬にモスル東部の病院に外科手術に必要な医療機器を届けた。モスルの復興は徐々に進みつつある。
一方、高遠氏は「ISが生まれた背景には、イスラム教シーア派のイラク政府によるスンニ派の市民の迫害(スンニ派狩り)があった。ISが撤退し、対テロ戦に一区切りがついた今、政権によるスンニ派狩りが再燃する可能性がある」と不安を口にする。モスルではスンニ派の住民が大多数を占める。「対IS」との名目で警察や軍による検問で殺されたり、消息不明になったりするモスル市民も多く、政権への恐怖は根強く残っているという。
モスルはISが2014年6月に建国を宣言した場所だ。以後3年間、ISによる恐怖支配が続いていた。イラク軍を含む米国主導の有志連合はISの掃討を掲げて2016年10月17日、「モスル奪還作戦」を開始。イラクのアバディ首相は7月10日に同作戦の勝利宣言をしたが、モスルの一部地域では現在も戦闘が続く。
高遠氏は「憎しみの元を絶たない限り、争いは終わらない。これからはイラクにまん延する『暴力に対して暴力で抵抗する』という空気を変えていかなくてはならない」と訴えた。