ワールド・ビジョン(WV)の支援を9歳から受けて育ち、WVのスタッフとなったカンボジア人のレイ・シネットさん(WVカンボジア・ボレイ・チュルサール地域開発プログラムマネージャ)は、WVが都内で主催したイベント「ワールド・ビジョン・カフェ スペシャル」に登壇した。「私はWVのスタッフになることに憧れて勉強した。14年かかってその夢を実現した。WVの支援のおかげで今の自分がある。今度は子どもたちに恩返ししたい」と語った。
■家族を助けるなら大学に行け
シネットさんはカンボジア北西部のサムロン地域で育った。5人きょうだいと両親の8人家族で、農家の出だ。シネットさんが9歳のころ、WV香港の支援プロジェクトが始まった。シネットさんには特定のチャイルド・スポンサーはつかなかったが、WV香港はカンボジアの内戦で壊されていた小学校の校舎を直してくれたり、手押しポンプの井戸を作ってくれたりした。
井戸ができるまでシネットさんは姉と2人で夜中の1時ごろに起き、3~4キロメートル離れた池まで水くみに行っていた。ある日、寝坊して朝6時に行くと、すでに池の水はない。家族はその日1日、水なしで過ごさなければならなかった。また、家で火事が起きたときは水がなくて火を消すことができず、ほとんどの財産を失い、次の収穫まで近所の人から食べ物を分けてもらい過ごしたこともある。シネットさんは「水の大切さをよく分かっていたので、ポンプができたときはとても嬉しかった」と話す。
WVの支援で得たのは物質的なモノだけではない。シネットさんは子どものころ特に夢もなく、中学生ぐらいになったら学校を辞めて家族のために働こうと思っていた。そんなとき、シネットさんの家を何度も訪ねてくれたWVカンボジアのスタッフ、ソムロンさんは言った。「家族を助けたいのなら、大学で勉強したほうがいい」。シネットさんはこのとき初めて大学で学びたいと思った。「ソムロンさんは私にとってヒーローだった。いつか彼みたいになりたいと思うようになった」とシネットさんは話す。
ソムロンさんに憧れたシネットさんは、村で初めて高校へ進学し、その後奨学金を得て王立プノンペン大学に進学。数学を専攻した。成績は良く、韓国に留学するための奨学金試験にも受かった。そんな矢先、父が事故で大けがを負う。家族の暮らしを助けるために大学を辞め、民間企業に就職した。「まだ大学生だった弟には勉強を続けてほしかったから」(シネットさん)。父は奇跡的に回復し、75歳になる現在も元気にしているという。
■読み書きできる子どもが1.7倍に
シネットさんは2011年にWVカンボジアのスタッフとなった。最初の仕事はチャイルド・スポンサーからの手紙を英語からクメール語、クメール語から英語に翻訳することだった。
WVでは、毎月4500円を寄付するメンバーを「チャイルド・スポンサー」と呼ぶ。チャイルド・スポンサーは支援地域に住む子ども(「チャイルド」)と手紙や訪問で交流できる。寄付はチャイルド個人ではなく、チャイルドが住む地域全体の教育、保健衛生、水資源開発、経済開発、農業などの支援に使われる。
シネットさんは、2011年にクライストチャーチ地震で被害を受けたニュージーランドのスポンサーからの手紙を翻訳したことを、今でも忘れられない。「地震で家が壊れてしまい、2人の親戚が亡くなったけれど、支援は続けるので安心してください。学校に行ってがんばって勉強してください」というものだ。
シネットさんの弟のチャイルド・スポンサーは香港の映画スター、アンディ・ラウ氏だった。ラウ氏は、体が弱かった弟にいつも手紙で「体が弱い人たちを助けるために医者になったら良い」と勧めた。「弟はまだ『医者』が何か分からない幼いときから、医者になりたいという夢をもった」とシネットさんは言う。弟は現在、奨学金を得てベトナムの医大で勉強中。2018年3月には医師となって帰国する予定だ。
シネットさんは現在、カンボジア南部のボレイ・チュルサール地域で地域開発プログラムマネージャとして働く。ボレイ・チュルサール地域は、雨期になると道路が冠水するため、小学校は年に4カ月しか開かれない。そのため、学校以外で補習できる子どもクラブを17カ所立ち上げた。足りない教材を提供し、教師に教え方の研修もした。その結果、この地域の小学6年生で十分読み書きできる子どもが40%(2014年)から68%(2016年)に増えた。そのほかにも、ため池や貯水タンクの設置、手洗いの講習なども手がける。
WVカンボジアは現在、カンボジアのチャイルドを支援するチャイルド・スポンサーを募集していない(ただWVジャパンは、カンボジアでのチャイルド・スポンサーを募集している)。だがシネットさんは将来、チャイルド・スポンサーになって子どもたちの夢を助けたいという。「スポンサーシップが子どもの人生を変えることを、自分の経験で知っているから」