コロンビア第2の都市メデジンの山沿いに広がるかつて最も危険だといわれたスラム街「コムナ13」には毎日多くの観光客が訪れる。スラム街に建つ色とりどりの家。道路脇の壁に描かれた動物や人物のグラフィティ。どちらも観光の目玉となっている。観光を通した治安と住民生活の向上のため、2011年にコロンビア政府が始めた政策の一環だ。ところが実態は住民の生活は以前と変わらず、空腹や貧困、ギャングの闘争に苦しむ日々が続いている。
■誰のための治安改善?
コムナ13でエンパナーダ(餃子のようなパン)やホットドッグを屋台で売るエステラ・チャベーラ・カルデナスさん(65歳)は「政府は家の外壁に色をつけただけ。観光客は確かに増えたけれど、住民の多くは全くといっていいほど経済的な恩恵を受けていない 」と現状を訴える。
エステラさんが朝6時から夜の10時ごろまで働いて稼ぐお金は1日2万〜2万5000ペソ(750〜1000円)。「毎日観光客が来るものの、売れる商品の数は以前と変わらない。エンパナーダを1日30個用意して8個余る時もあった」と話す。
エステラさんは50年以上続くコロンビアの内戦で子ども2人、孫1人を亡くした。現在は23歳のダウン症の娘との2人暮らしだ。「 私は糖尿病の薬が毎日必要。娘は病気で仕事できない。薬代と屋台の食材費だけであっという間に生活費は底をつく」と日常の苦しみを打ち明ける。
「観光客が増えたおかげで治安もある程度改善した」とエステラさんは一定の成果を認める。だが治安が向上したのは観光客を惹きつけるグラフィティが並ぶ一本道だけ。「いまだコムナ13のふもとでは、毎晩のようにコンボス(ギャング)の闘争が続く。麻薬販売の縄張りや派閥の争いが止まらない」と不安げな表情で訴えるエステラさん。
コンボスは内戦中にメデジンを牛耳った麻薬王、パブロ・エスコバルが 麻薬の運び屋や人殺しに少年を利用したことに起因する。パブロ・エスコバルの死後もなお、少年らは派閥を形成し、麻薬闘争や殺人に手を染める。コンボスはほぼ全てのスラム街に存在する。メデジン警察によると、2017年の時点でメデジンには220のコンボスがいるという。
■「オリオン作戦」で荒れる
コムナ13の周辺からカリブ海まで続くサンフアン高速道路は、アクセスの利便性から麻薬などの違法物資の流通経路とされてきた。サンフアン高速道路を支配する者がメデジンの物流を支配する。1990年代からコムナ13は「コロンビア革命軍(FARC)」や「民族解放軍(ELN)」といった過激左翼ゲリラや、「メデジンカルテル」などの麻薬組織の拠点となってきた。
2002年10月にウリベ大統領はゲリラを掃討する作戦「オペラシオン・オリオン」(オリオン作戦)をコムナ13で決行した。コロンビア史上最大の市街作戦ともいわれ、1200人以上の兵士がコムナ13に流れ込んだ。正確な数字はわかっていないが、被害者側によるとこの作戦で死者約90人、行方不明者約100人が出たといわれる。
オリオンの後、ゲリラの数は減少した。だが代わりに右翼の民兵組織パラミリタレスがコムナ13を占拠。パラミリタレスや残ったゲリラ、コンボスによる暴力は激化の一途をたどった。「オリオンの後の方が治安は悪化した。 今まで少なくとも5000人が無差別に殺されたと聞く。コムナ13に住むほぼ全ての人が家族の誰かを失っているだろう」とエステラさんは声を詰まらせながら証言する。
エステラさん自身も決して被害を免れた訳ではない。「日中に外に出るのさえ怖かった。オリオンの後に1度屋台を盗まれた。 より良い職に就くのは難しいし‥‥」と自身の境遇を口にする。
住民の貧困と彼らが負った心の傷は、壁の色ほど簡単には塗り替えられない。エステラさんは「辛い記憶は一生消えない。でも自分の体験を話すことは私にとってせめてもの息抜きになる」と目に涙を浮かべながらその場を後にした。