【コロンビア内戦を生き抜いた社会運動家の物語①】労働新聞がズボンに入っていただけで拷問、九死に一生を得た

コロンビア・メデジンにある「内戦博物館」のガイドを務めるフランシスコ・ホセ・アルバレスさん。かつては社会運動家として農民のために闘い、軍隊から拷問された過去をもつ

「虐殺や拷問から生き延びたからこそ、平和の意義を語れる」。50年以上続くコロンビアの内戦(コロンビア革命軍=FARCとコロンビア政府は和平合意を結んだが、左派ゲリラは他にもある)。同国第2の都市メデジンにある「内戦博物館」のガイドを務めるフランシスコ・ホセ・アルバレスさん(75歳)はかつて、農民のために闘う社会運動家のひとりだった。冒頭のセリフはアルバレスさんが発したものだ。

■農村を変えたかった

アルバレスさんは1942年、コロンビア西部のバジェ・デル・カウカ県のビジャヌエバという農村で生まれた。コロンビアの二大政党である保守党と自由党の対立が激化した「ラ・ビオレンシア(暴力の時代)」が始まった時、6歳だったアルバレスさん。小学校は1年で辞める羽目になった。いまでも文字は読めるが、書けないという。

32歳のとき、労働組合に加入。農村のまだ舗装されていない道をアスファルトに変えるプロジェクト「プロ・カレテラ」に参加した。このプロジェクトは5つの村の学生と農民が協力して、村と村をつなげる主要道路を作るもので、アルバレスさんは「農村は政府の手が全く届かない。自分たちで農村を変えていく必要があった」と振り返る。

43歳のとき(1985年)、小さな左派政党「愛国同盟(ウニオン・パトリオティカ)」が立ち上がった。当時のベタンクール大統領はその前年に5つの左翼ゲリラと和平交渉し、その結果、ゲリラは武器を放棄。その代わりに、政治に参加できるようになったためだ。

アルバレスさんは、愛国同盟が結成された当時からの党員だ。労組での活動が評価され、幹部から「入らないか」と誘われたという。「コロンビア政府から認められた組織(政党)に入らないと、農村の生活は変えられないと思った。権利はあるのに農民の声が政治に反映されることが全くなかった」

■5000人が殺された

アルバレスさんは1993年ごろまでの7~8年間、愛国同盟で活動した。「命の危険を感じたこともある」と打ち明ける。

コロンビア北部のアンティオキア県カイセドという村にいた時のことだ。アルバレスさんは、「アチャ・イ・マチェテ」(スペイン語で「斧と鉈」の意)という労組の新聞をズボンのポケットに入れていた。「お前はゲリラのメンバーだろ」。アルバレスさんは警官に尋問され、軍隊がやってきた。

「目隠しをされた状態で縛られて、森に連れていかれた。蹴られたり、殴られたりしたよ。枯れ葉の山の中に埋められて、燃やされそうになったので激しく抵抗した。軍人を2人ぐらい倒してやった」。アルバレスさんは5日にわたって暴行を受け、その後、解放された。

「私を捕まえたのがもしパラミリタレス(右派の民兵組織)だったら、殺されていた」とフランシスコさんは言う。パラミリタレスは、銃を持ち、農民を脅す暴力的なグループとしてコロンビア国内では悪名高い。アルバレスさんを捕まえたのは、不幸中の幸いともいえる政府の軍隊だった。

解放してもらえた理由についてアルバレスさんは語る。「コロンビアは18歳になると兵役の義務がある。お金が欲しくいから軍隊に残っている人もいる。私と同じ農民の生活を改善したいという考えをもつ人たちの殴る力は弱かった。敵か味方かすぐにわかったよ。最終的に、誰かが私をかばってくれたのだと思う」。労組の新聞をもっていた以外に、アルバレスさんが共産主義者だという証拠は見つからなかった。

政府が指揮をとる軍隊でさえ、法律に従っていなかった。「軍隊は、罪のない農民にゲリラの格好をさせ、銃殺した。共産主義者を取り締まる“フリ”をするためだ。翌日のニュースでは殺人が軍隊の手柄のように報道された」(アルバレスさん)。アルバレスさんと愛国同盟で活動していた友人もカイセドで軍隊に殺された。

愛国同盟の党員は1985~2002年の17年間で約5000人が殺されたといわれる。「コロンビア政府は左派ゲリラが政党を作ることを表向きでは許したが、裏では殺さなければと思っていた」とアルバレスさん。生き残ったのはアルバレスさんを含むほんの一握りだった。(②へ続く