ラマダン(断食月)が6月14日に終わった。インドネシア・バンドンに留学中の私は、身の周りにいるイスラム教徒のように日の出から日没までの断食に挑戦してみた。そこで気がついたのは、みんなで一斉に断食し、日没後の食卓を家族や友人らと囲み、レバラン(ラマダン明けの休み)に帰省し、家族と一緒の時間を過ごすことで、貧しい人を思う気持ちが芽生えたことだった。
■前日は白米3杯食いだめ
「インドネシア人もみんなやるし、せっかくだから君(私のこと)もプアサ(断食、性行為やうわさ話を断つこと)をやってみなよ」
留学先のパジャジャラン大学で机を並べるタイ出身のイスラム教徒の友だちが発したこの一言から、すべては始まった。ラマダンが始まる3日前のことだった。
私はどうしようかためらった。というのは、私は去年のラマダンでも、日本で断食に挑戦した。だが2週間くらいで挫折した過去がある。暑い中で喉が渇いていても水一滴飲めない辛さをもう一度味わうのは嫌だな、と正直思った。でもここはバンドン。どうやらラマダンの期間、日中はほとんどの屋台が閉まり、開いているのはマクドナルドぐらいとのこと。タイ人の熱心な説得に折れて、私は断食すると決めた。
1カ月あるラマダンでイスラム教徒は、日の出(午前4時ごろ)から日没(午後6時ごろ)まで一切の飲食を絶つ。このため食事できるのは、日の出前の礼拝(スブ)直前と日没後の礼拝(マグリブ)直後の2回だけ。飲み物は、スブ直前の食事のときにコップ3、4杯を一気飲みし、できるだけ水分を体内にためておく。
ラマダンが始まる前日、私は、お腹が減らないように白米を茶碗3杯分くらい胃の中に入れ、断食に臨んだ。初日、2日目、3日目‥‥夕方3時ごろから突如襲ってくる空腹と喉の渇き。だが徐々に身体が断食に慣れていく感覚は不思議だった。
■“断食明けセット”は2人前
バンドンで断食して強く感じたのは、インドネシアのイスラム教徒にとってラマダンの期間の1日2度の食事が、友人や家族との仲を深めるうえで大切なことだ。この期間は、いつも以上に誰かと食事をともにする機会が多い。私もひんぱんに食事に誘われ、1人で食べたのは2、3回しかなかった。
パジャジャラン大学院生のインドネシア人ティアラさんと私は、1日の断食明けに、行きつけの屋台によく一緒に行った。定番メニューのアヤムゴレン(ニワトリを揚げたもの)を食べながら、断食する意義についていろいろ教えてもらった。
「断食明けの夕食を誰かと一緒にとるのは、コーランに書かれているからではないのよ。インドネシアの文化。インドネシア人は友だちや家族と集まるのが好きだし。イスラム教徒が夕食の席を一緒にできるのは、ラマダンの期間は会社や学校が午後3、4時に終わるから」とティアラさん。彼女も実際、午後4時ごろにはインターンの仕事を切り上げていた。
「断食してやっとありつける食事のありがたみや幸せを、一緒に食卓を囲むことでシェアするの。レストランの多くもこの時期には2人前以上の断食明けセットを出すのよ。私もこの前、アヤムゴレンの断食明けセットを食べたわ」(ティアラさん)
■断食明けは先祖の墓参り
断食明けのレバランを私は、パジャジャラン大学で外国人にインドネシア語を教えるババンさんの家で迎えた。
インドネシアではレバランとその前後の数日間、すべての会社・学校が休みになる。このレバラン休暇を使って、インドネシア人は一斉に故郷へ帰る。インドネシアの会社は、1カ月分の給料に相当する「レバラン手当」を支給するのが普通だ。
運輸省の推測では、レバラン休暇で帰省する人の数は最大250万人。前年から10~12%ほど増えているという。日本のお盆や中国の春節のような帰省ラッシュとイメージするとわかりやすい。
ババン一家は、西ジャワ州マルガマカール村に住む4人家族だ。私が暮らすバンドンからバスを乗り継いでおよそ3時間、インターネットも満足につながらない山の上にあった。ここで私は、家族やコミュニティのつながりが強まるひと時を目にした。
6月15日の朝6時ごろ、「丘の上で村の人みんなでお祈りをするからおいで」とババンさんに私は叩き起こされた。眠い目をこすりながら丘を登ると、礼拝が始まるのを今か今かと待ち受ける数百人が集まっていた。
礼拝では全員がメッカの方向を向き、アラーにお祈りする。終わった後は、村の人たちが一人ひとりと握手を交わしながら、「これまで私がもっていた悪い考えや行いを許してください」とあいさつしあう。お互いの絆を、礼拝の場で再確認しているようだった。
インドネシアのレバランではまた、朝に礼拝をした後、先祖のお墓に行き、再びお祈りする習慣がある。インドネシア人にとって、レバラン帰省はまさに、日本人にとってのお盆のようなものなのだ。
■人生2度目の物ごいへの寄付
ラマダンに断食をして私が実感したのは、断食する行為には「社会の連帯を強化する役割」もあるということだ。
ティアラさんは言う。「貧しい人たちがいかに食べ物に困っているか共感する気持ちを人々に植え付けるのが断食。貧しい人とふだん交わる機会の少ないお金持ちが、貧しい人の苦しい気持ちを考える。それが社会の結束につながる」
ラマダンの期間、サダカ(寄付)はイスラム教徒にとって義務だ。彼らは実際、いつも以上に寄付をする。ちなみにお金である必要はないという。
ティアラさんは、私と一緒に断食明けの夕食を屋台でとっていたとき、近寄ってきた物ごいの高齢の女性に2000ルピア(約20円)のコインを笑顔で渡した。続いて私も自然に2000ルピアを、女性が差し出したプラスチックのコップに入れた。私にとって物ごいへ寄付したのは人生で2度目のことだった。
物ごいの女性ともし渋谷の道路脇で出会っていたらどうだろう。私はおそらく1円も渡していなかったと思う。私を含め日本人の多くは災害が起きたら寄付するが、ホームレスや障がい者には目もくれない。断食に挑戦して私は、飢えや貧しさを「身近な問題」としてとらえられるようになったかもしれないと思った。