パレスチナの面積はかつての1割
5月10日、イスラム原理主義組織ハマスはエルサレムに向けてロケット弾を発射した。これがイスラエルによる今回の空爆の引き金になったと報道される。
これについてヨルダン川西岸事務所の関口さんはこう話す。
「ハマス vs イスラエルで取り上げられることが多いが、ことの発端は(イスラエル政府が長年進める)東エルサレムへの入植問題だ」
エルサレムは東と西に分かれており、国連は西をイスラエル、東をパレスチナ自治区の領土とみなす。だがイスラエル地方裁判所は4月、東エルサレムのシェイク・ジャラのパレスチナ人13世帯に対して立ち退きを命ずる判決を下した。これに抗議する動きがパレスチナ自治区全土で広がっていった。
そんななかで起きたのが、アル・アクサモスクでのパレスチナ人とイスラエル警察との衝突だ。アル・アクサモスクはエルサレム旧市街にあるモスクで、イスラム教徒にとって3番目に重要な聖地。ラマダンの最後の金曜日となる5月6日の夜、7万人を超えるイスラム教徒(主にパレスチナ人)が礼拝をしていた。
イスラエルはその日、アル・アクサモスクに警察を配備し、イスラム教徒を挑発した。一部のパレスチナ人は礼拝後、警察に投石。衝突が始まった。警察は閃光弾やゴム弾などを使い、パレスチナ人を鎮圧。AP通信によると136人がけがを負い、83人が病院に運ばれたという。ほとんどがパレスチナ人だった。
ハマスは5日10日、イスラエルに対してアル・アクサモスクとシェイク・ジャラからの撤退を要求。それに応じないイスラエルに対し、ロケット弾をエルサレムに向かって発射した。イスラエルもガザへの空爆を開始した。
東エルサレムでは2000年前後からパレスチナ人への強制退去とユダヤ人の入植が続く。これによって壮絶な人生を送るパレスチナ人も少なくない。
パルシック・ガザ事務所のスタッフが話を聞いたパレスチナ人のナビルさんもそのひとりだ。ナビルさんの両親はかつて、テルアビブ近くのヤーファでレストランを経営していた。だがナビルさんの父はイスラエルの建国と同時に9カ月間拘束され、家とレストランを没収された。家族は仕方なく東エルサレムのシェイク・ジャラに移り住んだという。
そんなナビルさんは、イスラエルの東エルサレムへの入植でシェイク・ジャラの家も失った。「前住んでいた(シェイク・ジャラの)家の前を通るだけで涙が出る」とナビルさんは語ったという。
イスラエルが入植を進めるのは東エルサレムだけではない。国連がパレスチナ自治区と定めるヨルダン川西岸でもユダヤ人の入植が進む。パルシックの現地スタッフによると、ヨルダン川西岸のパレスチナ人は土地を没収され、オリーブ畑が焼かれ、家も奪われているという。抗議すれば射殺されることもある。
英国が統治していた1946年、パレスチナ自治区は今のイスラエル・パレスチナの土地の94%を占めていた。ところが1947年の国連の分割統治、1948年のイスラエル建国、4度の中東戦争を経てパレスチナ自治区はどんどん削られていく。2012年にはパレスチナ人が実質的に自治する土地は8%程度と小さくなってしまった。
パルシックは5月17日、日本の外務大臣あてに、イスラエルとガザの停戦のため日本政府に外交的努力を求める声明を他のNGOと共同で提出した。また空爆の被害を受けるガザの人たちを支援するため、ホームページで支援金も受け付け始めた。