1年かけてラサ巡礼
ナクツァン氏の本は、日本語より先に中国語(台湾の漢人向け)と英語に翻訳済み。フランス語版も今後出る予定だ。本の魅力を棚瀬氏はこう語る。
「中国政府軍がラサを制圧する前の東チベット地域(今の青海省や甘粛省も含む)の情報は貴重。とくに、東チベットの人たちが1年かけてチベット仏教の聖地ラサを巡礼する姿を描いた作品は他にない」
ラサ巡礼旅は東チベットの地域行事だったため、ナクツァン氏も6歳のときに父や兄と参加。およそ100の家族がラサを中心とするウツァン地方(今のチベット自治区)へキャラバンを組んで進んだという。参加者が道中、チベット仏教に対する信仰から「ラマ三宝(仏法僧)」と唱える場面も繰り返し登場する。
時代を問わず敬虔なチベット仏教徒が多いチベット人について棚瀬氏は「外国人が理解しがたいほどの強さがある。チベット文化は弱くない」と指摘する。棚瀬氏の知人のチベット人は実際「亡命政府があるインドから、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世が帰ってこない限り、チベットに幸せは戻ってこない」と訴えるほどだ。
公務員か教員の2択?
だが一方、今のチベットでは中国化が進む。原因のひとつとして棚瀬氏が挙げるのは、チベット人の生活が豊かになったこと。中国国内の民間企業は2010年ごろから、チベット高原で採れる薬草(とくに冬虫夏草)を漢方薬用として高額で取引してきたという。ちなみに冬虫夏草は、2008年の北京五輪に出場した中国の陸上チームの馬(ま)コーチが選手のスポーツドリンクに入れていたことで有名になった。
「薬草の取引でチベット経済は潤った。飢饉を経験したチベット人は、食べる物が毎日手に入るだけで感謝する」(棚瀬氏)
棚瀬氏によると、今のチベット人の若者は実際に中国語を重視する。「チベット語は宗教色が強くて古臭い。モダンな中国語を身につけるべき」と自発的に判断するチベット人も少なくないという。
「中国国内の一流大学は、試験も授業も中国語。チベット伝統の農業や牧畜の家庭で育った親世代は中国語を学んでいない。だからこそ、肉体労働の出稼ぎで得た給料(半年で約2万元=約35万円。チベット人の出稼ぎ期間は半年が一般的)は子どもの教育費に充てる」(棚瀬氏)
棚瀬氏は、チベット人の若者の多くはこぞって、中国語を生かせる地方公務員か教員を志望すると明かす。チベット人にとっての安定した仕事は、“中国政府の末端”のほかにはないという考えからだ。
「調査したチベット人の村では、半数の家が公務員を出していた。今のチベット人にとって農業や牧畜は劣ったもの。仕事とは呼ばない」(棚瀬氏)という現実があるようだ。