――オロモ人やアムハラ人はTPLFの何に不満をもっていたのか。
「民族別連邦制と言いつつ、国の権力や経済的利益が事実上、TPLFに独占されたことだ。TPLFは政府の主要なポジションを独占し、経済についても大きな力を振るうようになった。
エチオピアは米国、英国、中国などと独自外交を展開し、国際社会と協調することにより経済を発展させていった。当時のGDP(国内総生産)成長率は年間8%ほどと高い。
だがその成長の果実は、ティグライ人に多く配分された。TPLFは建前上は民族別の連邦制を目指したものの、権力や富の適正な配分に失敗したといえる」
拙速だった体制移行
――2012年にメレス首相が亡くなった。その後はどうなったのか。
「南部諸民族州の出身で当時副首相だったハイレマリアム氏がメレス首相の後を継いだ。彼はTPLFの傀儡とも揶揄されていたが、実際はそうではなかった。TPLFの権力を少しずつオロモ人やアムハラ人にスライドさせていったといわれる。EPRDF内でのTPLFの権力が弱まっていく中で、満を持して登場したのが最大民族のオロモ人であるアビィ・アハメド氏だ。アビィ氏は2018年にEPRDFのトップとなり、首相へと上り詰めた」
――現職のアビィ首相はこれまでに何をしたのか。
「アビィ首相はTPLFの排除・孤立化を進めた。具体的にはTPLFと犬猿の仲であるエリトリアとの和平の締結だ。敵の敵は味方論で、エリトリアとアビィ派の勢力が手を結び、TPLFを孤立化させた。
大きかったのは民族勢力の連合体であるEPRDFを解消し、それを統合して新たな与党『繁栄党』を作ったことだ。これは民族連邦共和国という体制から、より統合的な国家に移行することを意味する。民族連邦制を主張するTPLFはこれを受け入れなかった。繁栄党に参加せず、ティグライ州を拠点に、孤立の道を歩むこととなった」
――アビィ首相は民族連邦制から統合的な国家体制に移行しようとしたが、紛争が起きてしまった。なぜうまくいかなかったのか。
「アビィ首相としては、満を持して計画的に行動したということだったのかもしれないが、矢継ぎ早の改革に、多少なりとも危なっかしさを感じたことは事実だ。TPLFの軍事力や組織力、地域基盤についての分析が不十分なまま、拙速に軍事的手段を行使してしまったように思える。体制移行には、もっと時間と合意形成が必要だ」
「民族紛争」は言い訳
――メレス政権のときにたまった不満が紛争の背景にあるといえるのか。
「もちろんそれはあるだろう。メレス政権の強い国家統制と、経済成長の配分等に対してたまった不満が、メレスというカリスマを失ったあとコントロールできなくなった。これがアビィ政権誕生のもととなっている」