ミャンマーでは缶詰カレー
チェッターヒンのビジネスは軌道に乗ったが、保芦さんは日本で店を出す気はなかった。ミャンマーに将来住みたかったからだ。
保芦さんは2016年、念願だったヤンゴンに移住。今度はミャンマーで現地の人向けのレトルトカレーを販売しようと商品開発に乗り出した。
だが簡単にはいかない。ミャンマーにはレトルトカレーもなければ、レトルト食品を作る工場もないからだ。ミャンマー人の友人は「工場を作れ」と言う。だがそんなお金はひっくり返っても出てこない。
どうしようかと悩んでいた時に、保芦さんはヤンゴンから70キロメートル離れたバゴーに缶詰工場があるのを知った。「缶詰のレトルトカレーなら販売できる」
こう考えた保芦さんは工場のオーナーと交渉。工場のキッチンでカレーを調理し、それを缶詰に詰める行程を作り上げた。
ミャンマー人の口に合う味付けにもこだわった。ミャンマーカレーはインドカレーと違ってスパイスが少ない。保芦さんは友人からアドバイスをもらい、スパイスを減らして油を多めにしたミャンマー風の味付けに修正していった。
できあがったレトルトカレーの缶詰には、保芦さんの顔のイラストと「I LOVE CURRY I LOVE MYANMAR」と書いたステッカーを貼った。
国民的歌手も応援!
保芦さんのミャンマーへの思いは尋常ではない。
2020年1月に日本に一時帰国していた保芦さんは、テレビで新型コロナウイルスが蔓延した大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」のニュースを目にする。
「こんな得体のしれないウイルスが世界に広まれば、ミャンマーに帰れなくなる。だが(医療が不十分な)ミャンマーに帰れば、このウイルスで本当に死んでしまうかもしれない」
ミャンマーのことは大好きだが、命を懸けてまでのものなのか。こう悩んだ保芦さんだったが、それでもミャンマーに戻ることを決意した。
保芦さんにはその時、ひとつの夢があった。それはミャンマーと日本をつなぐ食の親善大使(フードアンバサダー)になることだ。
「食べ物を通じてミャンマーのすばらしさを伝えたい。ウイルスごときでその夢をあきらめてたまるか」
こう思った保芦さんはすぐに荷物をまとめ、ヤンゴンへと出発した。
ミャンマーに戻った保芦さんはコロナ禍の中、食の親善大使になるため活発に動き出す。ミャンマー人にオンラインで日本のカレーの作り方を教える料理教室を開始。コロナ禍が落ち着くと、ヤンゴンの高級ホテル「チャトリアムホテル」でも料理教室を開いた。
保芦さんはネットワークを作るためにヤンゴンのロータリークラブや観光協会を訪問して、自分をPR。現地の日本語情報誌「ヤンゴンプレス」では「美食日記」という連載を始めた。
行動が実を結んだのか、さまざまな人とつながっていく。オウンマウン・ホテル観光相からは「ミャンマーの食文化を日本に広めてほしい」と激励された。ミャンマーの国民的歌手、ニーニーキンゾーからは「レトルトカレーができたら私が宣伝してあげるから」と約束してもらった。ヤンゴンの高級レストラン「ラングーンティ-ハウス」でもレトルトカレーをおいてもらう手筈となっていた。
「缶詰のレトルトカレーも発売間近。食の親善大使になるのにリーチをかけていた」
だがレトルトカレーが販売されることはなかった。予定日だった2月9日の1週間前、軍事クーデターが起きたからだ。(続く)