【闘うカレー活動家・保芦ヒロスケさん②】ミャンマー国軍に弾圧されてもデモに参加した、「友だちは見捨てられない」

ミャンマー料理研究家の保芦ヒロスケさん。レトルトのミャンマーカレーを日本とミャンマーで開発した(保芦さん提供)

平和的な手段で平和は取り戻せない

風向きが変わったのは、2021年の2月の終わりごろだ。国軍はデモ隊に向かって容赦なく水平射撃を始めた。死者数は以降、膨れ上がる。エンジェルと呼ばれる当時19歳だったチェーシンさんがデモの参加中に銃殺された3月3日だけで少なくとも38人の一般市民が殺された。

当時(2021年3月ごろ)は深夜の1時から朝の9時までインターネットが使えなかった。保芦さんが朝9時にフェイスブックを開くと、デモで殺された人たちの写真や動画が目に飛び込んでくる。銃で撃たれ頭から血を流す男性。止血をする人々。親が殺され泣き叫ぶ子ども。

「フェイスブックのタイムラインは血の海だった。毎朝、涙が出てきた」

非道な国軍に対してデモ隊は次第に、火炎瓶や手製のスリングショットで対抗するようになる。アウンサンスーチー氏が唱える非暴力を続けていたが、もう限界だった。国軍は無防備のデモ隊に銃口を向ける。国際社会も非難や経済制裁はするが、軍事行動は起こさなかったからだ。

保芦さんは当時のことについてこう語る。

「クーデターが起きるまで、僕の頭の中はお花畑だった。日本でも『自衛隊(の存在に)反対』と言っていた。でもミャンマーの現状を目の当たりにして人生観が変わった。平和は一度失ったら、それを平和的に取り戻すことはできない。必要な戦いはある」

命の危険が高まる中、保芦さんはそれでもデモに参加し続けた。それはミャンマーの大切な友人たちが、命を懸けて抵抗していたからだ。のんきだった友人が、覚悟を決めてデモの最前線に行く。その姿を見て保芦さんは、最後まで彼らと一緒に闘おうと決意する。 

保芦さんはデモの様子を伝えるため、日本人に向けてフェイスブックでライブ配信もした。また国軍をかく乱するために、友人とともに夜に外出してゲリラデモを続けた。

そんな保芦さんに対して日本人コミュニティは冷たかった。「日本人としてのルールを守ってください」「危険なデモに参加して他の日本人に迷惑だ」と後ろ指を刺されるようになる。保芦さんはそんな言葉に怒りをぶちまける。

「友だちが苦しんでいる時に何もしないやつがいるか。『外国のことだから日本人はかかわるな』だと、僕は友だちのためにやってるんだ」(続く

ヤンゴンのデモ会場に向かうためにトラックの荷台に乗る保芦さん。アウンサンスーチー氏が描かれたマスクを付け、国軍への抗議を示す「三本指」をかざす(保芦さん提供)

ヤンゴンのデモ会場に向かうためにトラックの荷台に乗る保芦さん。アウンサンスーチー氏が描かれたマスクを付け、国軍への抗議を示す「三本指」をかざす(保芦さん提供)

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