チェンマイで義足を作り続ける国吉晃代さん、「多くの人を社会復帰させたい」

タイ・チェンマイにあるタイ義肢財団で働く国吉晃代さん。砂で作った義足の型に修正を加える

インターン先はカンボジアの製作所

国吉さんが途上国で働きたいと思い始めたのは学生時代からだ。津田塾大学の英文科に通っていたが、「一般企業へ就職したり、英語教師になることに前向きになれなかった」と国吉さんは振り返る。

学生時代に熱中したのが、途上国でのボランティア活動だ。国吉さんは当時、国際協力ボランティア団体のNICEに所属していた。2年生の時はネパールに行って、学校の運動場を広げるなどの活動に参加。村でのホームステイや子どもたちとの交流を通じて「将来は途上国で誰かの役に立ちたい」との気持ちを募らせた。

だが英文科で学ぶ英語はコミュニケーションのツールとしては有効だが、人を救うためのスキルにはならない。専門性を何か身につけたいと頭を悩ませていた大学3年生の春休み、国吉さんはある団体の講演会に参加した。

「地雷廃絶国際キャンペーン(ICBL)」。地雷廃絶を目指すNGOが集まってできた国際組織で、1997年にはノーベル平和賞も受賞した。地雷で足を失った人たちの苦しみやICBLの活動の話を聞いて、国吉さんはこう決意した。

「義肢装具士になって、手足を失った人たちを助けたい」

それからの行動は速かった。大学の友人が就職していく中、国吉さんは国立身体障がい者リハビリテーション学院の義肢装具学科に入学。2年次と3年次の実習では、他の学生が日本の義肢製作所でインターンシップをする中、国吉さんは日本のNGO「希みの会・HOPE」が日本人の義肢装具士を派遣していたカンボジアの義肢製作所を選んだ。

専門学校を卒業した後は、義肢のイロハを学ぶため日本の義肢製作会社に就職。経験を積みながら、途上国で義肢装具士として働く機会をうかがった。

そのチャンスが巡ってきたのは、就職してから3年半後の2005年。カンボジアでお世話になった先輩の義肢装具士に、タイ義肢財団で一緒に働かないかと誘われた。国吉さんは「働きたい」と二つ返事をし、チェンマイへ飛んだ。

タイで働けて幸せ

国吉さんは2023年、タイ義肢財団で働いて18年目を迎える。当初は苦労したタイ語も習得。職場の同僚のタイ人と結婚し、家族をもった。今ではタイ義肢財団で働く唯一の外国人だ。

そんな国吉さんはタイ義肢財団で働けることに感謝する。

「タイ義肢財団は足を失った人に無料で義足を作ってあげる。こんな財団は日本にはない。ここで働けて本当に幸せ」

タイ義肢財団は1992年、整形外科医でチェンマイ大学元教授のターチャイ・ジバケイト氏が、タイ前国王(ラマ9世)の母親シーナカリン王太后の後押しを受けて設立した。どこの国の出身だろうと、義足が必要な人には無料で提供する。

国吉さんは言う。

「日本で働いていた時は、患者さんに数十万円、時には100万円以上の義足代を請求しなければならなかった(日本では義肢装具は償還払いであるため、患者が立て替える必要がある)。でもこの財団ではそれをしなくて済む。助けが必要な人にお金を取らずに義足を渡せるのがうれしい」

国吉さんが尊敬するのがジバケイト氏だ。ジバケイト氏はタイ義肢財団を設立する前から、足を失くして不自由をしている人のために自らのポケットマネーで義足を作っていた。できるだけ安くおさえるため、義足の材料はすべてタイ国内で入手できるもの。包帯で作った型に、ヤクルトの容器を溶かしたプラスチックをしみこませて義足を作ったこともある。

タイ義肢財団は設立以来、3万本以上の義足を製作、無料で患者に提供してきた。その功績を認められたジバケイト氏は2008年、アジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受賞。現在は義足製作の第一線から退いたが、国吉さんを含めジバケイト氏の意志を継いだ義肢装具士が財団の活動を支えている。

「タイにはまだまだ助けが必要な人が大勢いる。もっと多くの患者に義足を届けたい。またもっと多くの義肢装具士を育てたい」。国吉さんはこう話す。

シーナカリン王太后(左)とナラーティワートラーチャナカリン王女(右)の銅像。タイ義肢財団の入り口に飾られている。タイ義肢財団の創設当時、王太后と王女はそれぞれ名誉会長、会長を務めた

シーナカリン王太后(左)とナラーティワートラーチャナカリン王女(右)の銅像。タイ義肢財団の入り口に飾られている。タイ義肢財団の創設当時、王太后と王女はそれぞれ名誉会長、会長を務めた

タイ義肢財団の建物に併設される義足展示場。義足のモデルの変遷を説明する国吉さん

タイ義肢財団の建物に併設される義足展示場。義足のモデルの変遷を説明する国吉さん

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