【チベット建築家・平子豊②】中国による再開発・ラサからの撤退・友人の死、「でも修復は諦めない」

ラサの街並みが一望できるポンボリ山に登って、タルチョと呼ばれる祈祷の旗を掲げた時の写真。平子さん(左)とチベット・ヘリテイジ・ファンドの創始者であるアンドレ・アレクサンダーさん(右)、ピンピン・デ・アゼベードさん(中央)。3人は深い友情で結ばれていた(写真は平子さん提供)

モンゴル・インド・北京に散り散り

だが平子さんらの活動とは裏腹に、中国政府はチベットへの引き締めを強めていった。

1999年以降はチベットで活動する外国のNGOへの取り締まりも強まり、チベット・ヘリテイジ・ファンドも2000年、ラサのあるチベット自治区からの撤退を余儀なくされた。

「ピンピンもアンドレも80年代からラサに通い、思い入れのある土地だった。本当はラサで仕事を続けたかったはず。だがどうすることもできなかった」(平子さん)

悲しみに暮れる3人だったが、下を向いている時間はない。3人は自分たちにできることに集中した。ピンピンさんとアンドレさんはそれぞれモンゴルとインドに、平子さんは北京に拠点を置きながらチベット東部のアムド地方やカム地方(今の青海省、四川省)などでチベット建築物の修復にあたった。

建築士になって親孝行?

1人となった平子さんは図面を描き、必要な建材をそろえる。資格はないが、その仕事の内容は建築家そのもの。2010年に日本へいったん帰国して独学で勉強し、1年で木造建築士と二級建築士の資格を取得。名実ともに建築家となった。

これをだれよりも喜んだのが平子さんの父だ。父は建築家。チベットに入り浸り日本で就職もしなかった息子が、いつの間にか自分と同じ道を歩んでいたからだ。

「父は、『設計図を描いて現地で建材を集め、歴史のある建物を守る豊(息子)の仕事は建築家の一員だ』と言って、僕の仕事を認めてくれている。巡り巡って建築家になったが、少しは親孝行できたかな」

平子さんはこう笑顔を見せる。

だが災難は続く。アンドレさんが2012年に急死したのだ。チベット・ヘリテイジ・ファンドの活動に加えて建築学の博士論文を仕上げていたアンドレさんは、過労からか心臓発作により母国ドイツで亡くなった。47歳の若さだった。

チベット・ヘリテイジ・ファンドの大黒柱であるアンドレさんを失ったピンピンさんと平子さんは話し合いのすえ、アンドレさんが担当していたインド・ラダックに活動の拠点を移すことにした。

平子さんは中国の北京を離れ、チベット様式の建築物が数多く残るラダックで修復事業を継続することになった。(続く

アムド地方(青海省)にあるナンラ・セルカン寺院。境内のユル・ラカン(地の神を祀るお堂)の上棟式で撮った一枚。カタックと呼ばれる白いスカーフで祝福を受けるチベット・ヘリテイジ・ファンドのチーム。後段右から4人目が平子さん(写真は本人提供)

アムド地方(青海省)にあるナンラ・セルカン寺院。境内のユル・ラカン(地の神を祀るお堂)の上棟式で撮った一枚。カタックと呼ばれる白いスカーフで祝福を受けるチベット・ヘリテイジ・ファンドのチーム。後段右から4人目が平子さん(写真は本人提供)

ラサの歴史的建造物の構造や歴史を記した貴重な書籍。アンドレ・アレクサンダーさんが中心となってチベット・ヘリテイジ・ファンドが作成した

ラサの歴史的建造物の構造や歴史を記した貴重な書籍。アンドレ・アレクサンダーさんが中心となってチベット・ヘリテイジ・ファンドが作成した

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