フィリピン社会にどっぷりと浸かっていたファーザー・トニーも日本が恋しかったのだろう、毎日のように僕を呼び出し、時間を持て余す2人はとりとめのない話に耽った。
キラウィン・タニギ(魚の酢漬け)をつまみにサンミゲルビールを飲みながら僕はよく疑問をぶつけた。
「どうして神父になったんですか」
「なんでかな。両親がカトリックの信者で、私が神父になるのを望んどったのが大きかったかもしれん。でも神父は貧乏だもんで、30を過ぎた今でも両親が時々仕送りしてくれるだわね。恥ずかしい」
「大航海時代の神父は体を張って未開地で宣教していましたよね。そういう気概でここに来たんですか」
「いやあ、フィリピン人の人懐っこさに憧れ、希望して来ただけよ。最近はカトリックよりもプロテスタントの方がすごいよ。山奥にはバプティストなんかの教会が建っとるし」
カトリックはギリシャ語で普遍的という意味だ。昔の神父たちは、普遍的なキリスト(ギリシャ語で油を注がれた者の意)の教えを世界中の人々に授けることを使命と信じて布教に勤しんだのだろうか。先人の努力が奏功して、カトリック、プロテスタントをはじめとするキリスト教は世界人口の4分の1を占める地球上最大の宗教となり、ヨーロッパから見ると東の果てに浮かぶフィリピン諸島の人々までをカトリックに改宗させてしまった。
対照的なのが日本だ。ローマ教皇庁はフランシスコ・ザビエルの到来から4世紀半の長きにわたってあの手この手で布教してきたが、物の本によればついに半世紀前、信者がどうしても20万人を超えない日本での活動を諦めたそうだ。全知全能の神は、ふつうの日本人にとってあまりに遠い存在だ。
「西洋人は物事を単純に考えるかも知れん。カトリックの教えは確かに理に適っとると思う。でも私自身、彼らに比べて信仰心が薄いような気がするんだわ」
ファーザー・トニーは意外なことを口走った。
MTV、コーラ、ハンバーガー、サッカー――画一化されていく世の中。「神の国」でもなかろうに、日本人はなぜ、キリスト教を執拗なまでに敬遠し続けるのだろう。ミッション系の学校には入りたいけれど、教義はノーサンキュー。西洋への憧憬と反発。それとも日本人は思いのほか、他国との横並びを嫌う民族主義者なのだろうか。
ファーザー・トニーは毎週土曜日の昼過ぎから、カトリック教徒のマンギャン族とともに日曜日のミサを捧げるため、彼らが暮らすバンバン村に出張する。
サンホセ中心部から山裾のサンニコラスまでオートバイで1時間かけて行き、そこから2時間ほど山を登る。僕もチャンスとばかり同行させてもらうことにした。
山道はさほど急峻ではないが、山林の乱伐、盗伐のせいだろう、一面はげ山で直射日光が全身を射す。僕は目に入った汗を手で拭いながら、毎週の「登山」で足腰を鍛えているファーザー・トニーの後についていった。
国土に森林が占める割合を比較すると、日本は約60%だが、木材ビジネスがかつて興隆したフィリピンはその半分以下といわれている。故田中角栄首相は生前、著書『日本列島改造論』の中で「日本には森林は無尽にある」という持論を展開、挙国一致の工業化を推進した。ところがフィリピンは、労働人口の5割弱がいまだ農民というのに、「金の生る木」は切り尽くされ、土気色の惨憺たる景色だけが残った。
僕らは夕方前に、鶏や豚の鳴き声が一帯をとよもすバンバン村に到着し、ファーザー・トニーの「定宿」となっている、青年リーダー格のマラナオさん一家を訪ねた。主人のセベルノ・マラナオさんは38歳。ふんどしは巻いておらず、脇差しも身に付けていない。寄付でもらったという、「同志社大学」と背中に印刷された紺のジャージ上下を着用していた。
日本人2人を見物に住人が集まってきた。日本にいる時に写真で見た通りの「紺のふんどし一丁で赤錆びた腰刀を差した」老人も数人いる。はにかみ屋の子供たちは、柱の影からそっとこちらをのぞいている。顔、体つきは平地のフィリピン人とそう変わらない。
高床式の住居に上がり込みマラナオさんと向かい合うと、僕は素朴な質問から切り出した。
「ふんどしは締めないんですか」
「うん。いまは服を買うお金もあるし、それに作り方を知らない」
「脇差しは?」
「畑に入るときは便利だから持っていくこともあるけど。最近の若者は頭に血が上ると、殺してやるというモーションをかける奴がいて危なくてしょうがない」
ふんどしと脇差し――日本人のルーツではないかと胸を躍らせてきた僕は、素朴な答えに少し拍子抜けした。
300人余りのマンギャン族が生活するミンドロ島バンバン村は、僕がこれまで足を踏み入れたマンギャンのどの部落よりも発達していた。
井戸から引いた簡易水道がある。バスケットコートもある。ラジオを持っている家庭もある。学校も集会所もある。これまで見慣れていた光景――ハエにたかられた赤ん坊や、皮膚がただれた幼児、ぼろ切れをまとった老婆――はこの村にはなかった。
夕日が山の向こうに沈みかけたころ、女たちは夕食の支度に取りかかり始め、村はほのぼのとした活気に包まれた。少数民族のコミュニティーにありがちな投げやりさはなく、「伝統的生活を保持しながら快適さを求める」という表現が当てはまるような気がした。
「オランダ人の神父さまが数年前にいらして、水道やら学校やらを作ってくれた」
マラナオさんは教会の功績をにこやかにのべたらと説明しだした。彼はもちろん熱心なカトリック信者である。尋ねると、宣教師は祖父の世代に入村し、世間話をしたり薬を配ったりしながら歩一歩と村人と親睦を深めていったという。
「最初はみんな外国人を恐れていたけど、神父さまはいい人だった」
それでも、カトリックを受け入れるまで数年を要したというが、現在は村人の半分以上が信者だ。しかしマンギャンは先祖代々、アニミズム(精霊信仰)を宗教生活のよりどころとしてきたので、カトリックは精神的支柱というより、むしろ駆け込み寺の役割を果たしている。今(1990年代前半)でも「マカアコ」という神を崇拝し、マカアコを見たことのある人がアルボラリオ(祈祷師)になる。この村には、男5人、女1人のアルボラリオがいるという。
「ミサの意味はよく分からないけれど、厳粛な雰囲気が好き」
マラナオさんの話に耳を傾けながら、レイテ州リマワサ島で1521年にフィリピン最初のミサがあげられて以来陸続と押し寄せてきたスペイン人の宣教師たちも、このオランダ人神父のようにモノを提供することで住民のハートを捉えていったのだろう、と僕は想像した。
バンバン村にはバプティスト教会も高台に建ち、アメリカ人牧師が起居を共にしている。思いも寄らなかったことに、ミンドロの小さな山村では布教競争が繰り広げられていた。
マラナオさん宅で振る舞われた夕食は、米と干し魚、それにニンニクの匂いが香ばしい卵焼きだった。マラナオさん夫婦とファーザー・トニー、僕の4人は、床の上に車座となって素手でご飯を口に運びながら、マンギャン族の暮らしぶりの話をした。
マラナオ家には田んぼがないが、親せきにカラバオ(水牛)二頭を貸し、収穫の2割をもらっている。米がないときはトウモロコシを潰して炊く。バナナやココナツ、カモテ(サツマイモ)が簡単に採れる南洋の自然環境では飢え死にすることはまずない。
人類学上は山岳民に分類されるマンギャンも、かつては平地民だったという。ところが16世紀末以降、フィリピンの最大勢力でルソン島中部一帯に住むタガログ族などが入植し、次第に山奥に追い込まれた。
「昔はサンホセもマンギャンの集落だった。先祖は海沿いに住み、魚を獲っていた。マンギャンとは山の人という意味で、タガログとの衝突を避けるために山へ入ってからこう呼ばれるようになった」
マラナオさんは淡々と語った。
人口8万と推測されるマンギャン族というのは、ミンドロ島の山地に居住する人々の総称で、7つの種族に分けられる。最も多いのはハヌノオ族だ。ハヌノオとは「本当」という意味である。サンスクリット系の文字を持ち、老人の何人かは現在でも、ミミズが這いつくばったような文字を書く。バンバン村は、ハヌノオ族が中心の集落だった。
フィリピンには100以上の民族、言語があるといわれる。主要なのは、タガログ族、セブ族(セブアノ)、イロイロ族(イロンゴ)、イロコス族(イロカノ)の4つで、全人口の4分の3を占める。エストラダ元大統領はタガログ、ラモス元大統領はイロカノを出自とする。
「ミンドロ島サンタクルスにある村はタガログを絶対に中に入れない。何かされるのでは、と恐れているから」
マンギャンはアイヌの人々と同じような境遇にいるのだ。アイヌもかつては、本州の中央部にまで居住していたが、大和政権によって北海道に追いやられた。国連の推計では先住民は世界70カ国に約3億人。世界人口の20人に1人が開拓民への同化を余儀なくされている。
僕が翌朝7時ごろ目覚めると、バンバン村はすでに昼下がりのような佇まいを見せていた。朝が早い彼らはすでに朝食を済ませ、部屋の掃除も終えたようで、家の中にいなかった。隣に寝ていたファーザー・トニーも起きだし、正午のミサの準備に取りかかり始めた。カトリック教会はこの村にまだ建っていないため、ミサはブレハブ造りの村の集会所を使う。
子供たちが集会所をニッパヤシの箒で掃除している間、ファーザー・トニーは後方のテーブルに純白のクロスを敷き、高さ30センチメートルほどのキリスト像を置いた。白と緑の法衣に着替えて戻ってくると、すでに数十人の信者が待ち受けていた。
ミサはすべてタガログ語だった。ファーザー・トニーは聖書の一部を朗読し、「差別に負けず、誇りを持ちなさい」という趣旨の説教をした。賛美歌を高らかに合唱し、手をつなぎあい、聖体拝領――パンとぶどう酒を食する――を最後に、ミサは1時間ほどで終わった。
マラナオさんはしみじみと話した。
「小学校でタガログ語を習い始めるまで自分がフィリピンという国にいることも、フィリピン人だということも知らなかった。今でもマンギャンという方がしっくりくる」
そもそもフィリピン人という概念が誕生したのは、ヨーロッパからマゼラン艦隊が到来し、スペインによる植民地支配が始まってからだ。たいていのフィリピン人は今でも、サントスやデラクルスなどスペイン風の姓を名乗っている。国名の「フィリピン」さえも、当時のスペイン王子フェリペ2世に因んで付けられた。
ところが皮肉なことに最初に「フィリピン人」になったのは、中国南西部から後れて渡来してきた「新マレー」と呼ばれるタガログやセブアノで、先住民であるマンギャンはいまだにフィリピン人に成りきれていないのだ。
「生まれ変わることができたら、何人になりたい?」
僕は不躾な質問をしてみた。
「マンギャンがいい。日本人は金持ちだけど――。たとえ山を下りても、自分たちの文化は失いたくはない。今のままで十分幸せだから」
マラナオさんは力強く言い切った。
余談だが、フィリピン憲法に定められた正式国名は「ピリピナス(Pilipinas)」で、国語は「ピリピノ語(Pilipino)」。フィリピン諸島の言語の大半は元来、Fの発音をもたず、英語を話せない人たちはFとPの区別がつかない。国名も以前は「フィリピナス(Filipinas)」だったが、自分の国の名称を自国民が発音できないというのも不可思議なので、Pに戻したという経緯がある。
感謝と別れの握手をマラナオさんと交わし、ファーザー・トニーと僕は日が落ちる前に山を下りた。(続く)