イランで、女性の高学歴化と社会進出が進んでいる。その変化は100年以上前、イラン版「あさが来た」や「とと姉ちゃん」の主人公とも言える女性知識人たちが、保守的な人々からの批判を受けながらも、教育機会を訴え続けた苦難の歴史から始まる。他のイスラム諸国の女性教育推進の参考にもなりそうだ。横浜市立大学の山﨑和美准教授に話を聞いた。
■大学合格者の6割が女性
――イスラム法学者が国家権力の中枢を担っているため、イラン女性の教育事情に、「抑圧」をイメージする日本人は多いと思います。
「実際は、教育における男女格差は、ほとんどありません。大学合格者に占める女性の割合は、今ではほぼ6割です。この点だけ見れば日本を上回ります。多くの女性が医学や工学など理系にも進学し、数学オリンピックやロボコンなどの入賞も目立ちます。工学部以外の全学部で、女性の方が男性よりも多いです。
確かに1979年のイラン革命後、女性はヒジャーブ(ヴェール)着用を義務付けられました。その一方で、貧困層や地方に多い保守的な親たちも、娘が着用していれば安心なので、学校に出しやすくなりました。
学校や病院など公共の場での男女隔離政策も、教員や医療従事者など、専門職に就く女性の増加につながり、女性の就学率や社会進出が上昇しました。イラン革命の意図しなかった結果とも言えます」
――イラン革命が女性教育の拡大につながったのは意外です。
「イラン革命以前から、国として拡大の機運があったのも事実です。パフラヴィー朝時代にレザー・シャー(在位:1925~1941年)が進めた西洋化と近代化が、女性教育拡大の契機と言われています。
しかし私は、20世紀初頭のイラン立憲革命(1905~1911年)前後に起こった、草の根的な女性たちの活動と声の検証が欠かせないと考えています。彼女たちの尽力は、国の指導者たちが女性教育の重要性を理解する前提条件になったからです。それがなければ、今の高学歴化につながらなかったかもしれません」
■「女子校は売春宿」と批判も
――当時、どのような女性がいましたか。
「女性教育拡大という観点から重要な2人の女性知識人がいます。2人とも、イラン版『朝が来た』や『とと姉ちゃん』の主人公のような女性です。
1人目はビービー・アスタラーバーディー(1858~1921年)。1907年にテヘランに女子校を設立しました。孤児やお金のない少女たちにペルシャ伝統の絨毯などを織る技術も教えました。彼女の功績によって、女子校の設立増加につながりました。
2人目はセディーゲ・ドウラターバーディー(1882~1961年)。女子校を設立しただけでなく、1919年に『女性の声』という婦人雑誌を創刊し、女性の権利を主張しました。
ところが、こうした女性たちは、保守的な人々から激しい攻撃を受けました。女子校は、『売春宿』などとも批判され、閉校させられたりしました。教師や生徒は、路上で侮辱され、投石の被害も受けました。それでも何人もの女性知識人が、女性教育の推進を訴え続けました」
――女性教育を認めない価値観に対して、どう主張したのですか。
「彼女たちは折れるどころか、女性教育の実現というフェミニズムを、戦略的に、祖国発展というナショナリズムに結び付けました。さらに保守的なイスラムの考えとも適合させて、必要性を主張したのです。
例えば、婦人雑誌などで『愛国心に富む子どもを育てるには、イスラムの教えに敬虔な母親による養育が重要だ。よって、子どもの最初の教師・母親となる女性に、教育が必要である』などと主張しました」
――否定し合うだけではなく、戦略的に保守層に必要性を訴えていったのですね。
「『女性解放』を掲げる本来のフェミニズム的な観点からすれば、限定的なものだったかもしれません。しかし、女性教育の拡大に確実につながったと思います。
イラン女性の高学歴化の分析は、アフガニスタンやパキスタンなどイスラム諸国における女性教育の推進にも、参考になる可能性があります。宗派や民族による違いで難しい部分もありますが。
イランの女性たちは強いです。現状打破のための闘いは今も続いています。『オフサイド・ガールズ』などのイラン映画からは、現在まで受け継がれているイラン女性たちの逞しさを知ることができます」