「グッモーニング!」。褐色の肌のナースが弾けそうな笑顔いっぱいで、ふかふかのベッドの上で寝ていた私に朝食を運んできた。
ここはデリーのアポロ病院。インドを代表するこの医療施設はショッピングモールのように大きく、白を基調にした瀟洒な建物だった。その内側は、隅々まで掃除が行き届き、空調もほど良く効いて快適だ。喧騒に包まれた外界とは明らかに隔絶された空気が流れている。
入院して1週間。インドを旅している最中に私は「左手中指あわや切断」という大けがを負い、2度目となる指の縫合手術とその後の手当てをこの“ブルジョア病院”で受けているのだ。
患部がズキズキする。中指を固定するために左手全体を包帯でぐるぐる巻きにし、スタンドを使って上から吊るしている。けがをしていない方の右手は、24時間ノンストップで感染症を防ぐ抗生物質と血液の循環を促すグルコースの点滴を受けており、注射針を差し込む部分が疲弊して痛む。体を少しでもよじると「動き」が波のように伝わって中指に激痛が走るので、爬虫類のようにただじーっと時間が過ぎ去るのを待つしかなすすべがない。
私はこの病院でナースに体を洗ってもらい、トイレをお願いし、腕を摩ってもらう。もちろん注射や投薬、消毒などの治療も。担当医は、指の整形外科が専門で、アメリカに以前留学していたという。
海外で最新技術を身に付けたエリートはこの国では少なくなく、インドの医療レベルが決して低くないといわれるゆえんだ。いわばインドの「光」の部分だろう。
朝食はコッペパンとオムレツ、チャイ(ミルク紅茶)が機内食のようにトレイの上に載せられていた。ナースがベッドを起こしてくれ、食べ物を一口ずつ私の口に運んでくれる。
まるで赤ん坊のように世話をしてもらいながら私は訊ねた。
「出身地はどこですか」
「ゴアよ。行ったことある?」
「行きたかったけど。けがしたから」
「インドはどうだった?」
「うーん、人に疲れた」
私は、これまでに遭遇したハプニングを一通り話し、頭の中にフラッシュバックしてきたシーンをよみがえらせながら苦笑いした。
「とんだ災難だったわね。大けがまでして。でもゴアはいいところよ。ぜひいらっしゃいよ。うちの病院のナースのほとんどがゴアから来たの」
彼女との会話は私の心を癒し、その献身ぶりは今回の事故を帳消しにしてくれるほど嬉しかった。
思い起こせばネパールからインドに陸路で入った直後からツキがなかった。
入国早々に一眼レフカメラは盗まれるわ、旅行社で鉄道切符を予約するとチップは脅し取られるわ、一歩外に出れば「ハロー、1ルピー」としつこい子どもの大群に囲まれ、ズボンは破かれるわ――で、インド、そしてインド人の第一印象は、この国の「陰」であり、もちろん重い現実でもあるが、貧しさゆえのえげつなさで最悪だった。
カモからカネをむしり取る、という単純明快な理論と行動。「ゼロ」の発見に始まり、情報技術(IT)産業の興隆まで、栄光のインドは微塵も感じられない。インドの“洗礼”を浴び、とんでもない場所に来たものだなと正直悔いていた。
カレーも、微妙な味の違いこそあれ、3食続けば食傷気味。加えて、大河の流れのごとくゆったりと走る列車の移動時間の長さ。さらに、気温40度の中でのゲストハウス暮らしも追い打ちをかけ、私は心身ともに疲れ果てていた。
旅に出てすでに9カ月目。出発前はアジア経済情報紙の会社に勤め、その関係で5年間にわたり、香港、クアラルンプール、バンコク、マニラ、ジャカルタを転々とした。東南アジアがかねてから大好きだった私にとって「現地のニュースを日本語で書く」というこの仕事はまさに天職だったが、その土地に暮らせば暮らすほど、東南アジアとはいったいなんぞや、という疑問が頭の中で膨れ上がり、自問自答を繰り返す悶々とした日々を送っていた。
そんなとき最も尊敬していた上司は私にこう言った。
「中国とインドを知らずして、アジアを語るな」
私は、この一言に目を覚まされ、会社に辞表を提出。バックパックひとつを背負い、数カ国を経由してこの地にやって来たのだ。
とはいえ、もはや学生時代のような体力はない。疲労が日一日と蓄積されるにつれて、旅するという気力さえも奪われつつあった。(続く)