タイのスラムで活動する「ドゥアン・プラティープ財団」の創設者で、事務局長を務めるプラティープ・ウンソンタム・秦氏は8月7日、立教大学で開催された「アジアをつなぐNGOとソーシャルビジネスの役割~ラモン・マグサイサイ賞受賞者が語るアジアの未来~」(主催:立教大学21世紀社会デザイン研究科、立教大学社会デザイン研究所、アジア・コミュニティ・センター21)で講演した。アジアのノーベル賞と称される「ラモン・マグサイサイ賞」を1978年に最年少(26歳)で受賞したプラティープ氏は、自身も生まれ育ちはバンコクのクロントイ・スラム。1968年ごろから、スラムで教育を普及させ、生活を改善させるための「闘い」に人生を捧げたその半生を日本の来場者の前で語った。
■タイにはいまも5500のスラム
東南アジア諸国連合(ASEAN)屈指のビジネスセンターで、観光立国でもあるタイ。その首都バンコクには高層ビルが建ち並び、世界中から観光客が押し寄せる。一見すると、タイ人は豊かさを謳歌しているように映る。
しかしプラティープ氏は言う。「タイからスラムが消えたわけではない。もしあなたが観光客としてバンコクを訪れれば、あなたはスラムの存在を目にすることもないだろう。スラムは、大きなビルの後ろに隠れている」
同氏によると、タイ全体ではいまもなお約5500のスラムが点在するという。バンコクだけでも約1900カ所。プラティープ氏が生まれたバンコク最大のスラム、クロントイ・スラムだけでも10万人が生活しているといわれる。
クロントイ・スラムで育ったプラティープ氏は、読み書きこそ、小学校で覚えたが、11歳から、別のスラムにある花火工場で働き始めた。同僚の子どもたちは読み書きができなかった。
「給料を銀行で貯金して、将来の学費にすればいいのに」。まだ子どもだったプラティープ氏が周りの子どもたちに何度勧めても、子どもたちは「読み書きができないから、バスに乗って、銀行に行くのさえ怖い」と答えた。
■「1日1バーツ学校」をスラムにオープン
「教育の機会はなぜ、すべての人に平等に与えられないのだろう。スラムにはなぜ学校がないのか、なぜ居住権がないのか」。プラティープ氏は十代のころから常に、自らにこう問い続けてきた。
働きながら貯めたお金で、夜間の中学校に入学した。16歳の時に、スラムの子どもたちを自宅に集め、姉とともに、子どもたちに読み書きを教え始めた。これが、1日1バーツさえ払えば誰もが読み書きを学べる「1日1バーツ学校」(1バーツは当時のレートで約10円)の始まりだ。
スラムでは、都会でお金を貯めて、いずれは田舎に戻ろうと考えている親が少なくない。そのため出産を役所に届け出ない親も多い。だが出生証明書がない子どもは学校に通えないという現実がある。これは、教育を受ける権利が与えられないことを意味する。そうした子どもたちにとって、1日1バーツ学校は貴重な学びの場となっていった。
スラムの教育環境を改善するために、プラティープ氏は学校の拡大を計画した。ところが政府当局から、学校の立ち退きを要求された。「そもそも子どもたちには出生証明書がなく、政府に登録されていなかった。私自身も、教員免許をもっていなかった。すべてが違法だった」
学校を閉鎖するか、存続させるか、悩んだ。母親に相談すると、娘にこう告げた。「人間には3つのタイプがいる。問題から逃げる人、現状を仕方ないと受け入れる人、現状を良くしようと闘う人。あなたはどのタイプ?」
この言葉を聞いたプラティープ氏は、スラムの教育を改善させる闘いを続けようと決意。その後、教員免許を取得し、学校の規模も拡大させていった。1日1バーツ学校は後に、バンコク都が運営する公立学校「バタナー共同体小学校」として認可された。
プラティープ氏の働きかけが奏功し、タイではその後、出生証明書がなくても小学校に進学できるようになった。ラモン・マグサイサイ賞の奨励金を基金に設立されたドゥアン・プラティープ財団は、スラムの子どもたちの更生を目指す「生き直しの学校」も設立するなど、活動の幅は文字の読み書きから広がっている。(齋藤友理香)