観光客でいつもは賑わうインドネシア・バリ島が静かだ。バリ北部のアグン山の噴火が沈静化してから数週間経った2017年12月中旬、私は留学先のバンドンからバリへ遊びに行った。驚いたのは、クタ海岸やタナロットといった有名な観光スポットを訪れる外国人観光客が激減していること。海外メディアはアグン山の「噴火」を大々的に報じたのに、「沈静化」はニュースとして取り上げないからだ。今回は、メディアが社会に与える影響とメディアの役割を考えてみたい。
■イメージに生活が左右される
「(アグン山から70キロメートルほど離れた)クタやヌサドゥア、スミニャックなどのビーチはもう安全だよ。(同50キロメートルの)ウブドは危ないかもしれないけど。噴火の影響でタクシーの乗客は少ないまま‥‥」。バリのタクシー運転手ジャクサさんはこう嘆く。
ホテルの経営も厳しそうだ。スミニャックにある中級ホテル「ニプリホテル」の従業員、プルさんは「(12月中旬の時点で)宿泊客の数は例年の3割と少ない」と心配する。ニプリホテルの場合、宿泊客の8割を占めるのが外国人。「海外の観光客は、アグン山の噴火による被害がひどいと思っている。実際はバリの一部のことなのに」と頭を悩ましている。
外国人観光客の数が急減したのは「火山の噴火でバリはまだ危ない」というイメージが残っているからだ。プルさんは「南部(デンパサールやクタ)は安全だと知ってバリを訪れる旅行者は一握りしかいない。バリ旅行を考える旅行者の大半は、バリが観光できるほど安全な状態に戻ったと思っていない」と続ける。
言うまでもなくバリは観光業に依存する島だ。観光客が減り続ければ、そのぶん住民の暮らしにマイナスの影響が出る。バリはもう安全だという「現実」と噴火による被害がまだひどいという「イメージ」の大きなギャップはある意味、風評被害といえるかもしれない。
■メディアに責任はないのか?
アグン山が噴火したのは2017年11月末。このニュースを海外メディアはこぞって大きく取り上げた。兵庫県にいる私の母も、日本のメディアを通じてアグン山の噴火を知り、バンドンに住む私に安否確認の電話をしてきたくらいだ。ちなみにバンドンとバリは約1100キロメートル離れている。日本でいえば東京~福岡といった感覚だ。
ところがほとんどのメディアは、火山活動が沈静化した12月から続報を出さなくなった。英BBCを例にとると、「アグン山が火山灰を噴出」と11月28日に報道したのが最後だ。米CNNは11月29日に、「飛行警戒レベルが下がり、バリの空港が再開」とのニュースを出したが、このときはまだ「終息」していなかった。インドネシア国立災害管理協会のスポークスマンは11月28日に、アグン山の周辺で地震が増え、噴火が近々また起こる可能性がある、と発表したばかりだった。
海外メディアにとって、「厳重警戒レベル」が解除され、活動が終息気味のアグン山はネタとして魅力がないのだろう。ただこうした報道の姿勢が、観光客からすれば、バリの正確な状況を知る手段を奪っているのも事実だ。
■偏向報道は差別を生む
メディアの役割とはいったい何なのか。アグン山の噴火のようにショッキングな現象・事件・事故はページビュー(PV)を稼げるかもしれない。しかし「その後の日常」を追わないことで、バリの観光業へ打撃を与えたように、意図的ではないにしろ社会にマイナスの影響を与えるケースも少なくない。
一例としてわかりやすいのが、「イスラム=テロ」のイメージを植え付けるイスラムをめぐる報道だ。主要メディアは、欧州で発生するテロは大きく扱う。だが対照的にイスラム教徒(ムスリム)の平穏な日常を報じることはほぼ皆無だ。
人口の9割がムスリムのインドネシアでは、ほとんどの人が学校に通い、働き、家族と休日を過ごす。日本人と同じように何気ない日常を送っている。イスラム国(IS)を支持するインドネシア人はゼロに近い。米シンクタンク「ピューリサーチセンター」によると、ISに賛同するインドネシア人はわずか4%だ。
欧州で発生するテロの報道がエスカレートする一方で、ムスリムが多い国でもISによるテロが起きていることをメディアはあまり大きく報じないのも問題だ。インドネシアでは実際、2016年1月に首都ジャカルタでIS信奉者が爆弾テロを実行し、銃撃戦にまで発展した。
インドネシアの外に目を移しても同じ。2015年11月に発生し、129人の死者を出したパリの同時多発テロは大きく報道された一方で、その前日に、43人の死者・200人以上の負傷者を出した中東のレバノンで起きたテロのニュースの扱いは小さかった。
こうした偏向報道はときに差別や格差を生む。メディアは読み手に情報を提供するサービスであると同時に、読み手の価値観に大きな影響を及ぼす権力でもある。情報の発信者の一人として私は、今回のアグン山の噴火を目の当たりにし、主要メディアがネタにしない「日常を報道する意義」を突きつけられた気がした。