「難民キャンプで学んだ英語のおかげで、妹や弟の学費を稼ぐことができる」。こう語るのは、ミャンマー東部にあるカレン州の州都パアンで、日系NGOの職員として働くソラワさん(31)だ。ソラワさんが幼いころ、家族は貧しく、また住んでいた地域では激しい紛争が繰り広げられていた。勉強しようにも近くに中学校はない。人生を切り開いたのは、タイにある難民キャンプへの“留学”だった。
■森に数日隠れたことも
ソラワさんが生まれたのは1990年。総選挙でアウンサンスーチー女史率いる国民民主連盟(NLD)が大勝したのに、軍部が選挙結果を受け入れず、民主化勢力を弾圧するという激動の時代だった。
生まれた場所は、パアンから車で5時間走ったところにある山間部のパインクラードン村。家族は当時、コメやピーナツ、ゴマを作って生計を立てていた。
パインクラードン村とその近郊は、かねてからミャンマー政府軍と、自治権を要求するカレン民族同盟(KNU)との間で激しい闘争があった地域。村の近くで衝突が起こると、ソラワさん一家は近くの村に逃げたり、移り住んだりした。森の中に隠れ、数日過ごすこともあったという。
別の村へ移住するたびに、森を切り開き、畑を作らなければならない。だが初めての土地で思うように収穫を上げるのは困難だ。ソラワさんの父は、農業の仕事のほかにKNUのポーターとして働き、家族を養った。
ソラワさんにとって問題だったのは、貧しさだけではなかった。教育機会も限られていたのだ。住んでいた村には小学校しかなかった。中学校で学ぼうにも家から遠く、寄宿するお金もない。ソラワさんは16歳になっても学歴が小卒のままだった。
■17時間労働で日当180円
ソラワさんは16歳の時(2006年)、意を決してタイとの国境を渡り、ターク県、ウンパーン郡にあるヌポ難民キャンプに“留学”した。タイの難民キャンプは当時、紛争から逃れたミャンマー難民だけでなく、学校に通えないミャンマー人の子どもも受け入れていた。
難民キャンプの多くの学校は、海外に本部を置く国際NGOやローカルNGOによって運営されていた。学費は無料。教科書も支給してくれる。英語圏からきたボランティアの教師からネイティブの英語を学べるとあって、「多くの子どもたちが難民キャンプに留学していた」とソラワさんは振り返る。
だが難民キャンプでの生活は楽ではなかった。学生寮は無料だったが、小さな部屋に2〜3人での共同生活。食べ物も、コメや小麦、豆などは無料でもらえたが、量に限りがあった。卵や肉は支給されない。「昼ごはんはほとんど食べられなかった」とソラワさんは語る。
ソラワさんは週末、難民キャンプを抜け出し、近くのミャオ族の村でトウモロコシやキャベツの収穫を手伝った。卵や肉、服を買うためだ。朝の6時から夜の11時まで働き、日当はたったの50バーツ(約180円)だった。
■平均月収の3倍稼ぐ!
ソラワさんは、ヌポ難民キャンプを手始めに、同じく国境沿いにあったウンピアム難民キャンプ、移民学習センター(ミャンマー人の子どものために無料で教育を提供する施設)のひとつであるトー・ムウェー・キー学校で勉強した。トー・ムウェー・キーを修了後、高卒と同等の学力があるという証明である「GED(General Education Development)」のテストを受け、大学進学も考えた。だが幼い妹や弟の教育費を稼ぐため、2014年にミャンマーへ帰国した。
ミャンマーの教育制度では、ソラワさんの最終学歴は小卒。このため公務員になることも、普通の会社に就職することも難しい。だがソラワさんは2種類のカレン語(ポーカレンとスゴーカレン)、ビルマ語、難民キャンプで習得した英語を話す。この語学力が認められ、パアンで活動する日系NGOの仕事を得た。月給は55万チャット(約4万円)。これはミャンマーの平均月給15万チャットの3倍以上だ。
■貧困から脱却するには「英語」
ソラワさんがNGOの仕事と同時に始めたのが、英語のフリースクールだ。対象はパアンに住む大学生。4月からの3カ月間にわたって夜6時から8時まで、毎日、英語の授業をする。
「英語が話せるようになれば、良い仕事にも就ける。海外で勉強することも可能だ」(ソラワさん)。フリースクールの修了生のひとりは実際、ミャンマーの大手NGOメディカル・アクション・ミャンマーに就職した。
フリースクールの存在は口コミで広がりつつある。生徒の数は、2014年の立ち上げ当初の7人から、2019年には30人を超えるまでになった。
「私は十分な教育を受けられなくて苦労した。子どもたちには同じ思いをさせたくない」と語るソラワさん。今後は学生寮を建設したり、6カ月や1年といった長いスパンのコースも始めたりする予定だ。