南米コロンビアのメデジンで、50年以上に及んだ内戦の子どもの被害者らに向けて、日本の演劇を見せる活動がある。日本語を学ぶコロンビア人の学生や地元のEAFIT大学で日本語講師を務める羽田野香里さんが進める「サンタプロジェクト」だ。2019年のクリスマスシーズンは「夢見る力」をコンセプトに坂本龍馬を上演した。コロンビアでは約3年前に和平合意が結ばれたが、ここにきて反政府左派ゲリラ「コロンビア革命軍(FARC)」の元兵士への復讐が増えるなど、内戦による問題は深刻さを増している。
■過去にとらわれるな
「新しい日本をつくる」「日本の未来のために」。こうしたセリフは、主人公の坂本竜馬を演じるフリアン・ラミレスさんが劇中で何度も繰り返した言葉だ。
この劇は、薩摩藩、長州藩、徳川幕府で分裂していた幕末の日本の状況にフィクションを織り交ぜた内容。“新しい日本”を夢見る竜馬が、バラバラだった日本を1つにまとめていくストーリーが描かれる。
国内での勢力争いに躍起になっている藩や幕府に対して、竜馬は薩長同盟や大政奉還といった未来志向の提案をする。竜馬の突拍子もない考えに対し、「お前は夢でも見ているのか?」といったセリフを他の登場人物は放つ。だが「日本の未来のために」という竜馬の強い願いに押され、最終的にはみんながそれを受け入れ、話は進む。
大事なのは、劇の中で竜馬は一貫して「復讐」に否定的なスタンスをとっていることだ。
劇の序盤、竜馬の部下が、自身の兄を殺した新選組に復讐すると言ったのに対し、竜馬は次のようなセリフを返した。
「復讐が唯一の手段ではない。刀には刀を、力には力をという戦いの時代はもう終わる。過去にとらわれるな。未来を見ろ」
■「許し」なくして平和なし
サンタプロジェクトが始まったのは2009年だ。2016年から、平和教育の意味合いが強まっていった。きっかけとなったのは、メデジンで国内避難民が多く暮らすアヒサル地区で平和教育に取り組むNGO「COAPAZ」の代表、サンドラ・プエルタさんとの出会いだ。
プエルタさんは言う。
「私たち(内戦被害者と加害者)にいま必要なのは責め合うことではなく、許し合うこと。復讐の連鎖を乗り越えられたとき、初めて私たちは前を向き、自分の人生を考えられるようになる。さもないと、コロンビアの発展はない」
「アヒサルでも劇を上演してほしい」と頼み込むプエルタさんに対し、羽田野さんは迷いながら了承。2019年も全4公演のうち、ラストにアヒサルをもっていった。
劇を上演した後の手ごたえについて、坂本竜馬を演じたラミレスさんは「復讐の無益さや夢を見る大切さなどのメッセージがどれぐらい伝わったかどうかは正直わからない。けれども、少しでも伝わったとすれば、意義はあると思う」と話す。
演劇ディレクターを務めたブレイネル・サンチェスさんは「アヒサルの子どもたちは、内戦によって家を追われた過去をもつ。復讐をしないと決心し、その代わりに平和を望むようになれば、問題の解決につながる」と語る。
■復讐で殺されたのは77人
コロンビアではいま、FARCに対する復讐が社会問題となっている。国連によれば、2019年に殺された元FARC兵士の数は77人。2017年の31人、2018年の65人と増加傾向にある。
コロンビアの内戦は2016年、政府と敵対していたFARCに大幅な恩赦を与えるかたちで終結した。ところが処罰の対象となったのは、人道に対する罪など重要な犯罪のみ。多くの元FARC兵士は自白さえすれば罪に問われることはないのが実情だ。
武器を捨てた元FARC兵士は町に戻った。自分の親や子どもをFARCに殺された被害者がその犯人と出くわすこともある。そのとき復讐するのか、しないのか。「許さないと平和は永遠に訪れない。許しは絶対に必要」とプエルタさんは考える。
こう語るプエルタさんも、実は内戦中に恋人が殺された悲惨な経験をもつ。故郷を追われた内戦被害者でもある。50年以上に及ぶコロンビア内戦では約22万人が命を落とした。被害者にとって元FARC兵士を許すのはそう簡単ではないこともまた現実だ。
ただ希望となるニュースもある。プエルタさんによると、内戦被害者と加害者が平和的に共生する地域もあるという。
「復讐は決して終わることのない負のサイクル。無力だ。和平合意の内容(農地の返還など)が尊重されないのは悲しい」。プエルタさんはこう嘆く。
■人口の15%が故郷を追われる
コロンビアは世界で最も多くの国内避難民を出している国だ。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、その数は2018年末で約781万6500人。コロンビアの人口は約5000万人なので、人口の15%以上が故郷を追われ、国内の別の場所に逃げたということになる。
コロンビア政府によれば、1年あたりの国内避難民の発生数は、ピークの2002年は77万人以上。和平合意が結ばれた2017年以降はおよそ10万人と激減したが、いまだにゼロには程遠い数字が続く。